ラストバージン
楓に着くと、マスターは臨時休業のプレートをそのままにして、店内へと促してくれた。


レコードが流れていない空間は、いつもと少しばかり違うけれど……。剥げた銅の鐘と振り子時計、それからコーヒーの香りに笑みが零れた。


「どうぞお掛けになって下さい」


いつもとは違うセリフを口にしたマスターは、カウンターの左端の椅子を引いてくれた。
指定席に懐かしさが込み上げ、同時に胸の奥が小さく痛む。


それに気付かない振りをして微笑み、マスターに差し出されたおしぼりで手を拭いた。


「いつもの物でよろしいですか? それとも、アイスになさいますか?」


外はもちろん、エアコンが稼働したばかりの店内は生温い空気が漂っていたけれど、ずっと恋しかったブレンドを選んだ。


「かしこまりました」


マスターはニコリと笑って、慣れた手付きで豆からコーヒーを淹れる。
その様子を見つめながら、少し来なかっただけなのにもう随分と足を運んでいなかったような気になった。


「お待たせ致しました」


程なくして目の前に置かれたコーヒーカップからは、挽きたてのコーヒーの香りが漂っていた。


「いただきます」


何とも言えない嬉しさに、自然と満面に笑みが浮かぶ。

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