みあげればソラ
◇今が幸せ~菅野美亜
「あの男」
その男の姿は、霞がかかったように記憶の彼方に薄らいでいた。
彼女の深層心理がその男の記憶を消し去ろうとしていたのだ。
辱められ続けた数年の間、美亜は目を閉じて耐えてきた。
荒く酒臭い息遣いも、少し汗ばんだ大きな手も、確かに美亜の五感に残されてはいたけれど。
目を瞑り、意識を放って自分を無にすることで、美亜はその行為を遣り過ごすしてきたのだ。
何故、その男を受け入れたのか。
何故、その場から逃げなかったのか。
美亜は何度も自分に問いかけた。
受け入れた自分が悪い。
逃げなかった自分が悪い。
美亜はどこまでも自分を責めた。
一度は父親として優しく接してくれたその男の豹変を認めるのが怖かった。
人は変わる。
変えたのは自分なのだ。
もう誰も信じられない、信じたくない。
その男の目に映る、女としての自分の姿を見たくなかった。
父親としての彼を男に変えたのは自分なのだ。
その目に囚われ、認めるのが怖かった。
女に生まれたことを呪った。
女として生きることが苦痛だった。
それでも……、美亜は自分を失いたくなかった。
生きることを選んだのだ。