LOVELY DIET
序章・エイプリルフール
 玄関先で森口匡(もりぐちただし)は重ねた唇をそっと外した。

愛しの妻にお出かけのキスをする。
それが毎朝の日課だった。


匡は周囲も一目おく愛妻家。

でも人こう言う。
ラブラブならぬ、バカップルだ。
と。


二人はただ、照れずにキスをする。
それが謂れだった。

愛していれば当然のことだと二人は思っていただけなのに。




 「じゃあ行ってくるよ」
今度は腰を低くする。


「ママを頼むよ」
そう言いながら、臨月間近いお腹をさすった。


今日は四月一日。
匡の勤めている会社でも入社式がある。
それも東京にある本社で。

だから匡は今から出張しなければならないのだ。




 空は鈍より曇ってる。


(――雨にならなければいいな)

匡を見送りながら思った。




 朝一番のバスに乗り、匡は駅に向かう。
何時もより大きめのショルダーバッグには小さな折り畳みの傘。
それらをもう一度確認しながら匡は東京へと急いでいた。


「雨にならなければいいな」

こんどは匡が言う。
以心伝心。
二人は本当に仲良し夫婦だった。




 久しぶりに駅で新聞を買う。
入社式のスピーチようのネタ探しだった。
でも匡の買うのは決まっていた。


《エイプリルフール特集》が掲載されているあの新聞だった。


「何何……、ヘエー」
人の迷惑省みず、匡は記事に没頭する。

そして頭の中では、どのようにして話題を広げて行くかを模索していた。




 「あなた大変!」
本社へ着くなり呼び出された受話器の前。

何事かと思って出たらいきなり愛妻の一言。


『ん?』

その一言で、初音は匡だと直感した。


(――やっと通じた)
思わずホッとする。
でもさっき本人確認もしないで、いきなり大変など言ってしまったから急に照れくさくなった。

でも本当はそれどころではなかった。


「だから大変なの!!」
大きなお腹を抱えて初音はもう一度叫んでいた。


『どうした? 何があった?』


「あ、赤ちゃんが産まれそうなの」
初音はやっと答えた。


予定日はまだずっと先だった。
それなのに破水してしまったのだ。

破水とは、胎児の揺りかご的存在の羊水が子宮から流れ出してしまうことだった。

初音はただ足元で広がってゆく生暖かいそれに呆然と立ち尽くすしかなかったのだ。




 ガラス戸の向こうは、この時期にしては信じられない白い世界が広がってゆく。

そう……
外は雪になっていた。

やっと春らしくなってきたと言うのに。




 でも受話器の向こうでは、匡は笑っていた。


「一体何なの!?」
流石に温厚の初音は切れた。


『又又冗談ばっかり言って、そんなことにだまされないぞ。はっちゃんのことだから、慌てて帰ったら『エイプリルフール』って言うにきまってる』

匡はそう言いながら受話器を置いた。


「えっー、エイプリルフール?」

初音は慌ててカレンダーを見る。

其処にあった暦はまだ三月のままだった。


四月バカなんて、すっかり忘れている。
でも匡はサラリーマン。
社内ではきっと当たり前のように横行しているのだろう。


(――それにしても……

――うーん、たあ坊のお馬鹿さん)

初音は受話器を持ったままで佇む自分に気付き、慌ててそれを置いた。


はっちゃん、たあ坊と呼び合う二人は、幼なじみで同級生でもあった。
互いを知り尽くしているのは事実。
でもだから、嘘は言えないのだった。




 もう一度、会社に電話をしてみた。
でも匡はもう二度と受話器を取ってはくれなかった。

今日は入社式で、匡は手伝いのために会場に出てしまった後だったのだ。




初音は仕方なく救急車を呼んだ。


「もう何よ。何がエイプリルフールよ。もうたあ坊なんてどうだっていい。私一人でも産んでやるわ」
初音は息巻いた。
それでも本音は寂しい。




(――えっー、もし産まれたらきっと未熟児……

――どうせなら今日産まれて来てー)


でもそんな願いも虚しく、森口雪那(もりぐちゆきな)は四月二日に誕生したのだった。




 匡は結局、出産間に合わなかった。
雪のため電車が遅れ、帰宅困難者になってしまったのだ。

でも匡は病院で初音に会うまで、本当にエイプリルフールだと思っていたのだった。


匡は翌日の電車で帰路に着いた。
でもそのまま会社に報告に行き仕事を何時ものようにこなしあ。
匡がようやっと帰宅した時は夜になっていた。


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