the Blink
カナはこの植物園が大好きだった。
もう随分と前に作られた場所で、ベンチや街灯の白いペンキは所々剥げかけていてとても寂れたような場所だったが、やっぱり緑が多いせいか纏わりついてくる空気や吹き抜ける風が「外」とはまるで違った。平日の昼間は人っ子一人いないし、まるで全てが自分一人の物のように思えた。
カナはそんな植物園を全力で走り、いつもの大きな銀杏の木のある芝生へサンダルを脱ぎ捨て寝そべると銀杏の太い幹に両脚を投げ掛けた。
銀杏の木の葉は絵の具じゃ表せないようなとても爽やかな緑色だった。その葉と葉の間から漏れてくる初夏の太陽の光は、夏の光が苦手なカナにも「これくらいなら好きな光だ」と思えるくらいだった。カナのクリームイエローのスカートの裾がハタハタと風に靡き、その色は周りの空気に溶け出していきそうだった。

カナは大きく息を吸い込むと、

「あああ…ああぁああぁー」

と、発生練習をした。
カナはこの人っ子一人いない平日の植物園で爽やかな空気を感じながら歌う事が大好きだった。
もう中学生の頃から暇さえあればここへ来ていて、いつの間にかそれが習慣になっていた。
歌う事は小さい頃から好きで、ただ学生時代に流行りのバンドをコピーするようなグループにはぞくしていなかったし、そもそも「人前」で歌うのは好きではなかった。
だから「趣味」ではあっても決して「特技」ではなかった。

「あーああぁーあぁ…んっん!」

最後に軽く咳払いをすると、カナは静かに目を瞑り頭の中にあるメロディーを口ずさみ始めた。

「ラララーララーラーラララーラララーララーラララララーラー♪」

それは美しく伸びやかな歌声だった。
昔のお姫様が出てくるようなおとぎ話なら青い小鳥がさえずりながら周りを飛び出しそうな、不治の病にかかった人がこの歌声を聴いたなら、その病ですらどこかへ飛んで行ってしまいそうな、そんな歌声だった。
それに今日の天気にもピッタリだった。
澄んだ空気に眩しいくらいの太陽、水玉模様に流れる雲はいつしか音符のような形を描いているようだった。

「ラララーララーラー♪…」

一息で歌い終えたカナは大きく鼻から息を吸い込んだ。

ゆっくりと目を開けると、ゆらゆらと風に揺れる銀杏の葉っぱの間からのぞく太陽の光が一瞬虹のように見えた。
カナは満足げに微笑んだ。

すると間もなくカナのいる場所から少し離れた高い場所にあるベンチの方から小さな拍手が聞こえた気がした。

カナは慌てて立ち上がるとそちらを見つめた。少し西に傾き出した太陽がベンチを照らしよく見えない。でも確かに拍手の音が聞こえる。
カナは裸足のまま一歩前に出た。
目を凝らして光の射す方を見てみると、そこには白いシャツにベージュ色のズボンを履いた金髪の男の人が座っていて、こちらを見つめていた。

「圭介、誰もいないって言ってたのに…」

カナはそう思って下唇をきつく噛むと、慌ててサンダルを履き、もと来た道を俯きながら早足で戻り始めた。
その人は変わらず銀杏の木の方に向かい、小さな拍手を繰り返していた。
それはカナが随分と歩いた後にも続いていてカナは少しずつ腹立たしく思えてきた。

「まだやってる…嫌味?下手くそだって馬鹿にしてるんだ!」

喜怒哀楽のハッキリした性格のカナ。
自分の気持ちを内に秘める事ができない。
カナはピタッと立ち止まるとベンチへ続く坂道を少し大股気味に息を切らしながら上り始めた。
坂を登りきりベンチの方を見るとその人は立ち上がり銀杏の木の方を見つめていた。拍手はもう止んでいた。

「あの!」

その人はビクッと驚きカナの方を見た。

「…」

その人を見てカナは思わず息を呑んだ。

透き通るような真っ白な肌に、少しくたびれた白いシャツ。細い指に華奢な身体。その人自体がもう真っ白でまるで天使のようだった。

別に本物の天使がどんなものかは知らなかったけどカナには「天使とはきっとこういう姿なのだろう」と思えた。

首を大きく左右に振るとカナは我に返った。

「…あのっ!私が悪いんです!私が…こ、こんなとこで歌って…歌ってたから!で、でも!そんな嫌味ったらしく拍手する事ないじゃない!下手くそなのは分かってるもん!だけどここで歌うのが好きっていうか…大体こんな平日の昼間っから人がいるなんて思わなかったんだもん!」

思っていた事を全て口に出し肩で大きく息をした。その人は暫く俯くと、またカナの方を見つめてゆっくり右手を前に差し出した。
その手には銀色のステッキが握りしめられていた。

「ごめんなさい…。悪気はなかったんです、別に嫌味でやったわけじゃないんだ。とても…とても素敵なメロディーだったから…でもね…大丈夫。ほら…これ…僕にはあなたの声は聴こえても姿は見えていないから…」

そう言うとその人は優しく微笑んだ。

その時の気持ちをどう表したらいいだろう?
怒りや恥じらい、そして少しの愛おしさ。カナの顔は日焼けしたみたいな真っ赤に染まっていた。言葉を失い、下を向いたままカナはその人の方をどうしても見れなかった。
どれくらいの間だろうか?きっと時間にすればほんの数十秒だろう。
下を向いたまま返す言葉を必死に探していたカナの足元に小さな水滴が落ちてきた。
次の瞬間「ザーッ」と絵に描いたような雨が線となって降り始めた。
カナは、

「失礼します…」

とだけ言い残し、急いで屋根のある入場ゲートの方へ走り始めた。

50mくらいだろうか走った後にふと後ろを振り返ると、その人は雨に濡れながらステッキを握り締め危なげに坂を下っていた。
一歩一歩確かめるように、ゆっくりと。

「そうだ…目…見えなかったんだ…」

カナはとても複雑な気持ちになっていた。自分の歌声は家族にだって聴かせた事がなかった。
手助けしなきゃ!という気持ちはあったが、聴かれてしまったという恥ずかしさの方がまだ勝っていてすぐには引き返せずにいた。

と、その時。
その人は足を滑らせその場に座り込んでしまった。カナは慌てて走り出した。
その人の近くまで来ると走る足を止め、ゆっくりと近付いて行った。
そして腕を掴むと、それはまるで少女のような細さでカナは少し驚いた。

ーーー「掴まって」ーーー

そう言うとカナはその人を簡単に抱き上げた。

「ごめん…なさい…」

小さな小さな声でその人は言った。雨の雫が涙のように見えた。
そのまま二人は何も言葉を交わさないまま近くの倉庫の屋根の下に着いた。
花の肥料などが置かれたその倉庫の屋根はとても狭く、入口の扉にしっかりと身体を寄せていても少し雨に濡れてしまうくらいだった。
カナが両手で顔にまとわりつく前髪を分けながらその人を見ると、その人は小さく震えながら左手でハンカチを差し出した。

「あ!いえっ私持ってるんで大丈夫です!あなたも自分の事吹いて下さい…」

嘘だった。
カナは家から15分の近さにあるこの植物園へはいつも手ぶらで来ていた。
カナにはもうその人は目が見えないと十分理解出来ていたから、それで口を付いて出た嘘だった。
しかし、暫くするとその人のハンカチを持つ左手がそっとカナの肩に触れた。

「見えていないはずなのに…どうして…」

カナはそう思ったがその優しく触れる手を振り払うことができなかった。
その人は少し笑みを浮かべながら、とても優しくカナの肩に落ちた雨粒を払っていた。その手はとても温かかった。

眩しいくらいの太陽と激しい雨の中でカナはその人と出会った。
19年という短い人生の中では感じることのできなかった感情とともに…

遠くの方で傘を差した圭介がじっとこちらを見ていた。
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