雨の日は、先生と

補習

午後から授業に出たので、放課後はあっという間にやってきた。
私は3階の数学科準備室へ向かう。

冬になりかけているせいか、緊張のせいなのか、私の両手は氷のように冷たかった。

数学科準備室の前に立って、しばらく固まる。
呼ばれているけれど、そこに先生がいると思うと緊張してしまう。
とっくに呼吸は整っているのに、何度も深呼吸をしてみたりして、私はそこに立っていた。

すると、内側からドアが横に開いて、私は目を見開く。


「どうぞ。」


心の準備ができていなかっただけに、鼓動がうるさいくらいに鳴り響いていた。


「どうしたの。」


どうしたの、って先生の口癖なのかもしれない。
語尾を下げた優しい響き。
尋ねるというよりは、なだめるようなその言い方。


「あ、えと。……失礼、します。」


「こっちです。」



数学科準備室は、本棚の迷路みたいになっている。
行きつく先は、天野先生の机だ。
他にも机はあるけれど、使われていないみたいだった。



私たちが歩くと、本に積もったほこりが舞って、夕陽に照らされる。
運動部の掛け声と、吹奏楽の音色が遠くで響いていた。



「狭くて、ごめんなさいね。」



そう謝る先生は、本当にすまなそうな顔をしている。
でもここにある本は、先生の私物ではないだろうし、先生のせいじゃないのに、と思う。



「この部屋には私のほかに、誰もいません。この部屋は埃っぽいので、普段数学科の先生方は職員室にいるんです。」


「どうして先生は、ここに?」



ふと不思議に思って問うと、先生は困ったような顔をした。



「居場所がないんですよ。他に。」



そう言った先生の顔は、一瞬だけすごく暗く見えた。
それが、夕陽の逆光になっていたせいなのか、それとも本当に悲しい顔だったのか、私には分からない。


「私も同じです。」


思わず発したその言葉が、重すぎたことに気付いて後悔する。
先生は単に、職員室に机がないということを言いたかっただけだろうに。


「同じですか。」


だから、先生がそう言って切なげに微笑んでくれた時、ほんの少しほっとしたんだ。


「前任の先生は、体調不良で休職していて。私はその先生の代わりです。」

「あ、だから天野先生が。」

「ええ。」


先生は、どこからか教科書を抱えてきて、私の前に開いて置いた。


「じゃ、始めますか。」

「はい。」


そこからはずっと、「補習」だった。
先生の説明は分かりやすく、授業に出ていなかった部分の内容も、するすると頭に入ってくる。
元々数学は得意な方なので、基礎的な内容でつまずくことはなかった。



そして、気付いたら辺りは真っ暗になっていた。



「あ、こんな時間。冬は日が落ちるのが早いですね。」


寒さが身に染みる。
先生も、心なしか寒そうに身をかがめていた。


「笹森さん、送っていきますよ。」


「え、だ、大丈夫です!」


――それは困る。

私は瞬時に、そう思ってしまった。


「遠慮しないで。」


「い、いえ、本当に!」


大丈夫だと思う。
だけど、もしも玄関前に泥酔した母が座っていたら、と思ったのだ。

天野先生にだけは知られたくなかった。

「助けて」という手紙を毎朝、先生の下駄箱に入れているくせに。



「そうですか。では、途中まで一緒に歩きますか。」

「え?」

「運動不足なので、たまには散歩しないと。」

「散歩、ですか。」

「散歩、です。今日は月が綺麗ですよ。」



そう言って、先生は窓を開け放つ。
ひんやりとした空気が、私たちを包んだ。



「綺麗ですね。」


「綺麗です。」



先生と並んで月を眺めた。

漆黒の空に輝く、上弦の月。



「行きますか。」



薄手のコートを羽織って振り返った先生の顔は、月の光で半分だけ照らされていた。

先生との不思議な縁の本当の始まりは図書館だった。

でも、本格的に運命が走り出したのは、この頃だった。


どこか儚げで、現実離れしているような天野先生と、一緒に歩いたこの日から――


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