雨の日は、先生と
オーナーはレストランの扉を閉めた。
「CLOSED」という看板を提げる。
「え、お店、」
「いいんだ。今日は大切なお客様がいるからね。」
天野先生に似た温かさを持つオーナーに、私は知らずと心を開いていくのを感じた。
「俺と陽は、高校2年のときからの親友なんだ。高校時代のあいつは、今よりもっとかっこつけてて、ロマンチストで、愛情深くて。めちゃくちゃモテてたんだ。俺は、そんな陽を誇らしく思ってた。」
楽しげに語る一方で、オーナーの横顔には暗い影が落ちることもあって。
それが一体、何を意味しているのか知りたかった。
「でも、高3のとき俺たちは一度、決別したんだ。……同じ人を好きになって。」
つぶやくように言ったオーナーは、まだその痛みを抱えているみたいだった。
「同じ人……?」
「そう。結局勝ったのは陽。そんなの、最初から分かりきってた。俺がばかだったんだ。……いろんなことがあって、陽にも、玲さんにも謝れないまま、卒業したんだ。ふたりは同じ地元の大学に進学して、俺は縁あって、東京の料理専門学校に進学した。それから、ふたりのことは風の噂程度にしか知らなかったんだ。」
「玲さんって、もしかして、」
「そうだよ。陽の奥さん。……知らない方がよかった?」
「いいえ。続けてください。」
高校時代からひとりの人だけを愛し続けるなんて、いかにも先生らしい。
私は、嫉妬することさえ許されなくて。
ただ泣かないように、オーナーを見つめていた。
「風の噂に聞いたのは、陽が教師になったということ。玲さんは専業主婦だって。それだけだったんだ。……でも。」
オーナーの目に、光るものがあった。
震える声で、一生懸命話そうとする。
「来てくれたんだ。俺が、この街に帰ってきて、開いたこのレストランに。玲さんと一緒に。」
ついに涙がこぼれ落ちて、オーナーの頬を濡らした。
オーナーは、そのときのことを思い出したように、嬉しそうな顔のまま涙を流していた。
「あんなけんかをして、ずっと謝っていなかったのに。陽は、そんなこと忘れたみたいに、笑いながら。……玲さんも。」
そういう人だろうな、と思う。
先生は、限りなく優しくて、心が広いから。
奥さんだって、きっと同じなのだろう。
「それから毎年、クリスマスになるとふたりで来てくれた。あの二階席で。ふたり、仲が良さそうに身を寄せ合っていたんだ。……いつも決まって注文するのが、これだった。」
そう言って、オーナーはいつの間にか出来上がったパスタを、私の前に置いてくれた。
湯気が、私の顔を包む。
今のうちに、泣いてしまいたかった。
「俺は、これでよかったんだと思った。陽は玲さんを大事にしていたし、玲さんも幸せそうだった。何年か経って、男の子も産まれて。二人は、幸せそのものだったんだ。……でも、ある年から、ぱったり二人は来なくなってしまった。」
「え、」
「何があったのか、電話をしても陽は教えてくれなかった。いつも、どうでもいい話をするだけで。あいつ、心の中にものすごくつらいことを抱えていたにもかかわらず、俺は気付けなかった。……気付かないふりをしていたのかもしれない。」
話の続きを聞くのが怖くなった。
私は、パスタが冷めないうちに、と思って一口だけ食べる。
でも、味が全然感じられなかった。
「ここから先は、本人に聞いてほしい。俺の知っていることは、真実かどうか分からないから。それに、何より陽が、嫌がると思うから。」
「……はい。」
そうだね。
きっと、それが正しいんだろう。
先生に何が起こったのか。
それは、簡単に人に教えてもらってはいけないんだ。
「今まで誰にも話していないんだ、この話。」
オーナーは照れたように言って、笑った。
「君だから話したんだよ。」
急に、真剣な表情になって、オーナーは私の顔を覗き込んだ。
「これだけは言えるけれど。……初めてなんだ。陽が、玲さん以外の人とここに来たのは。それも、同じ席で、同じものを注文して。」
「……重ねてたのかもしれません。」
「それは違うよ。だって。」
オーナーは笑顔になって、言った。
「玲さんは明朗な人で、いつだって大きな声ではっきり話すんだ。人の肩をバシバシ叩いたり、笑ったり、泣いたり。感情表現の豊かな人なんだよ。……君とは、雰囲気も、表情も違う。顔だって、似ているわけじゃない。」
「そうなんだ……。」
「陽、相当の覚悟があったと思うんだ。教え子である君を、ここに連れてくるなんて。表情には出さないけれど、きっと、すごく葛藤があって。それでも君を失えなかった。陽は、君のことが必要だったんだ。」
「でも、あの日から陽さんは、私を手放す準備をしていたんだと思います。」
「どうして?」
「私に指一本触れなくなって……、その後クリスマスに、」
我慢しようと思っているのに、涙が溢れた。
どうしようもなくて、拭おうにも止まらなくて。
すると、カウンター越しに手がのびてきて、ぽん、と私の頭に手が乗った。
「俺のせいじゃん。」
「ちがっ、」
「陽はずっと迷ってたんだろ。進んじゃいけないって、これは渡っちゃいけない橋なんだって。……だけど、その向こうには君がいた。その君が、あいつはほしくてたまらなかったんだ。」
嗚咽が止まらない。
初めて、先生への気持ちを、人に認めてもらったような気がした。
「俺が何も言わなかったら、あいつ、そのまま渡ってたかもしれない。……いや、あいつのことだから、半分くらい渡っても引き返したかもしれないな。」
ごめんね、先生。
そんな葛藤があったのに、私はなんて自分勝手だったんだろう。
先生のこと求めるばかりで、その苦しみなんて知ろうともしなかった。
先生のそばにいられればそれでいい、って。
そればっかり考えていたけど。
先生は、それじゃいけなかったんだ。
先生は、誠実で、真面目で、優しすぎるから。
自分のこと、許せなかったんだね、先生―――
「もしも、君がこれ以上、あいつを苦しめたくないと思ったら、忘れることだよ。」
言わないでほしかったその言葉。
でも、やっぱりそうなんだと思った。
「忘れるのは大変なことだけれど。でも、好きなら。その人の幸せを願えるだろう?」
オーナーは、切ない表情で言った。
きっと、彼も同じなんだ。
玲さんのこと、長い時間をかけて、やっと思い出にできたのだろう。
「でも、……どうしてもあいつがいいなら。陽しかいないなら、……。待つしかない。」
「待つ?」
「だって、陽はああいう男だから。中途半端にして人を傷つけることなんて、好むはずはないんだ。渡りかけた橋を忘れて、もう渡らないなんてこと、ないと思うよ、俺は。」
「えっと、」
「あ。まあ、それは陽次第だけどね。」
「あっ!」
私は、ひとつ重大なことを訊くのを忘れていたことに気付く。
「なに、どうした?」
「陽さんって、病気なんですか?」
「え?陽が?」
オーナーは目を丸くする。
「そういう噂があって。毎日、病院に通っているって。」
「あ、そういうことか。それは大丈夫。陽は病気なんかじゃないよ。」
「え?」
「もしかして、そのことでずっと悩んでた?」
「……は、い、」
やっと止まりかけた涙が、また溢れ出す。
オーナーは、呆れたように笑って、ハンカチを貸してくれた。
「先生、死んじゃうんじゃないかって。ずっと、」
「ははは。あいつ、体だけは丈夫だからな!高校時代は3カ年皆勤で、表彰されてたよ。」
「陽さんが?」
「そう。だから大丈夫。それだけは心配しなくていいよ。」
ほっとして、ため息が出た。
よかった。
本当によかった。
となりにいなくても。
そばにいられなくても。
先生は、この世界のどこかでちゃんと、生きている―――
「CLOSED」という看板を提げる。
「え、お店、」
「いいんだ。今日は大切なお客様がいるからね。」
天野先生に似た温かさを持つオーナーに、私は知らずと心を開いていくのを感じた。
「俺と陽は、高校2年のときからの親友なんだ。高校時代のあいつは、今よりもっとかっこつけてて、ロマンチストで、愛情深くて。めちゃくちゃモテてたんだ。俺は、そんな陽を誇らしく思ってた。」
楽しげに語る一方で、オーナーの横顔には暗い影が落ちることもあって。
それが一体、何を意味しているのか知りたかった。
「でも、高3のとき俺たちは一度、決別したんだ。……同じ人を好きになって。」
つぶやくように言ったオーナーは、まだその痛みを抱えているみたいだった。
「同じ人……?」
「そう。結局勝ったのは陽。そんなの、最初から分かりきってた。俺がばかだったんだ。……いろんなことがあって、陽にも、玲さんにも謝れないまま、卒業したんだ。ふたりは同じ地元の大学に進学して、俺は縁あって、東京の料理専門学校に進学した。それから、ふたりのことは風の噂程度にしか知らなかったんだ。」
「玲さんって、もしかして、」
「そうだよ。陽の奥さん。……知らない方がよかった?」
「いいえ。続けてください。」
高校時代からひとりの人だけを愛し続けるなんて、いかにも先生らしい。
私は、嫉妬することさえ許されなくて。
ただ泣かないように、オーナーを見つめていた。
「風の噂に聞いたのは、陽が教師になったということ。玲さんは専業主婦だって。それだけだったんだ。……でも。」
オーナーの目に、光るものがあった。
震える声で、一生懸命話そうとする。
「来てくれたんだ。俺が、この街に帰ってきて、開いたこのレストランに。玲さんと一緒に。」
ついに涙がこぼれ落ちて、オーナーの頬を濡らした。
オーナーは、そのときのことを思い出したように、嬉しそうな顔のまま涙を流していた。
「あんなけんかをして、ずっと謝っていなかったのに。陽は、そんなこと忘れたみたいに、笑いながら。……玲さんも。」
そういう人だろうな、と思う。
先生は、限りなく優しくて、心が広いから。
奥さんだって、きっと同じなのだろう。
「それから毎年、クリスマスになるとふたりで来てくれた。あの二階席で。ふたり、仲が良さそうに身を寄せ合っていたんだ。……いつも決まって注文するのが、これだった。」
そう言って、オーナーはいつの間にか出来上がったパスタを、私の前に置いてくれた。
湯気が、私の顔を包む。
今のうちに、泣いてしまいたかった。
「俺は、これでよかったんだと思った。陽は玲さんを大事にしていたし、玲さんも幸せそうだった。何年か経って、男の子も産まれて。二人は、幸せそのものだったんだ。……でも、ある年から、ぱったり二人は来なくなってしまった。」
「え、」
「何があったのか、電話をしても陽は教えてくれなかった。いつも、どうでもいい話をするだけで。あいつ、心の中にものすごくつらいことを抱えていたにもかかわらず、俺は気付けなかった。……気付かないふりをしていたのかもしれない。」
話の続きを聞くのが怖くなった。
私は、パスタが冷めないうちに、と思って一口だけ食べる。
でも、味が全然感じられなかった。
「ここから先は、本人に聞いてほしい。俺の知っていることは、真実かどうか分からないから。それに、何より陽が、嫌がると思うから。」
「……はい。」
そうだね。
きっと、それが正しいんだろう。
先生に何が起こったのか。
それは、簡単に人に教えてもらってはいけないんだ。
「今まで誰にも話していないんだ、この話。」
オーナーは照れたように言って、笑った。
「君だから話したんだよ。」
急に、真剣な表情になって、オーナーは私の顔を覗き込んだ。
「これだけは言えるけれど。……初めてなんだ。陽が、玲さん以外の人とここに来たのは。それも、同じ席で、同じものを注文して。」
「……重ねてたのかもしれません。」
「それは違うよ。だって。」
オーナーは笑顔になって、言った。
「玲さんは明朗な人で、いつだって大きな声ではっきり話すんだ。人の肩をバシバシ叩いたり、笑ったり、泣いたり。感情表現の豊かな人なんだよ。……君とは、雰囲気も、表情も違う。顔だって、似ているわけじゃない。」
「そうなんだ……。」
「陽、相当の覚悟があったと思うんだ。教え子である君を、ここに連れてくるなんて。表情には出さないけれど、きっと、すごく葛藤があって。それでも君を失えなかった。陽は、君のことが必要だったんだ。」
「でも、あの日から陽さんは、私を手放す準備をしていたんだと思います。」
「どうして?」
「私に指一本触れなくなって……、その後クリスマスに、」
我慢しようと思っているのに、涙が溢れた。
どうしようもなくて、拭おうにも止まらなくて。
すると、カウンター越しに手がのびてきて、ぽん、と私の頭に手が乗った。
「俺のせいじゃん。」
「ちがっ、」
「陽はずっと迷ってたんだろ。進んじゃいけないって、これは渡っちゃいけない橋なんだって。……だけど、その向こうには君がいた。その君が、あいつはほしくてたまらなかったんだ。」
嗚咽が止まらない。
初めて、先生への気持ちを、人に認めてもらったような気がした。
「俺が何も言わなかったら、あいつ、そのまま渡ってたかもしれない。……いや、あいつのことだから、半分くらい渡っても引き返したかもしれないな。」
ごめんね、先生。
そんな葛藤があったのに、私はなんて自分勝手だったんだろう。
先生のこと求めるばかりで、その苦しみなんて知ろうともしなかった。
先生のそばにいられればそれでいい、って。
そればっかり考えていたけど。
先生は、それじゃいけなかったんだ。
先生は、誠実で、真面目で、優しすぎるから。
自分のこと、許せなかったんだね、先生―――
「もしも、君がこれ以上、あいつを苦しめたくないと思ったら、忘れることだよ。」
言わないでほしかったその言葉。
でも、やっぱりそうなんだと思った。
「忘れるのは大変なことだけれど。でも、好きなら。その人の幸せを願えるだろう?」
オーナーは、切ない表情で言った。
きっと、彼も同じなんだ。
玲さんのこと、長い時間をかけて、やっと思い出にできたのだろう。
「でも、……どうしてもあいつがいいなら。陽しかいないなら、……。待つしかない。」
「待つ?」
「だって、陽はああいう男だから。中途半端にして人を傷つけることなんて、好むはずはないんだ。渡りかけた橋を忘れて、もう渡らないなんてこと、ないと思うよ、俺は。」
「えっと、」
「あ。まあ、それは陽次第だけどね。」
「あっ!」
私は、ひとつ重大なことを訊くのを忘れていたことに気付く。
「なに、どうした?」
「陽さんって、病気なんですか?」
「え?陽が?」
オーナーは目を丸くする。
「そういう噂があって。毎日、病院に通っているって。」
「あ、そういうことか。それは大丈夫。陽は病気なんかじゃないよ。」
「え?」
「もしかして、そのことでずっと悩んでた?」
「……は、い、」
やっと止まりかけた涙が、また溢れ出す。
オーナーは、呆れたように笑って、ハンカチを貸してくれた。
「先生、死んじゃうんじゃないかって。ずっと、」
「ははは。あいつ、体だけは丈夫だからな!高校時代は3カ年皆勤で、表彰されてたよ。」
「陽さんが?」
「そう。だから大丈夫。それだけは心配しなくていいよ。」
ほっとして、ため息が出た。
よかった。
本当によかった。
となりにいなくても。
そばにいられなくても。
先生は、この世界のどこかでちゃんと、生きている―――