雨の日は、先生と
先生の秘密
次の日、補習はお休みだった。
数学科準備室のドアに、張り紙がしてあったんだ。
笹森唯さんへ
申し訳ありませんが、緊急の職員会議なので今日はいません。
もしかしたら明日もいないかもしれません。
したがって、今週の補習はなしとします。
また来週来てくださいね。
天野
それを見て、私の心はさらに沈んだ。
仕方ないんだって分かっている。
今は私たち3年生の追い込みの時期。
模試の結果を頼りに、先生方もたくさん話し合わなければいけない時期。
だけど、今日は何故だか、無性に先生に会いたかった。
誰からも必要とされていない私の存在を、静かに受け止めてほしかった。
しかも今日は木曜日で、明日も会えなくて。
私、先生に会ってから、弱くなったよ。
ドアに手を掛けると、閉っているかと思ったのに案外あっさり開いた。
せめて、また先生の椅子に座って、景色を見ていたい。
先生になったつもりになって。
前のように椅子に座る。
日誌はどこかに片付けられていて、ボールペンも引き出しに戻されていた。
机の上には何もない。
でも、何か見つけたくて。
先生が大切にしているもの、見つけたくて。
私は一番下の引き出しを開けた。
そこには、なぜか裏返された写真たてが入っていた。
勝手に鼓動が高く鳴り響く。
見ちゃだめだ、傷付くだけだって。
そう思っているのに。
勝手に手が動いて、その写真を裏返したんだ――
今よりちょっと若い頃の先生。
そして、隣には可憐な笑顔を浮かべる、奥さん。
ふたりの間には、あどけない笑顔を浮かべる、幼い男の子。
ああ、これが現実なんだ、って思う。
私が生まれる前から先生はこの世界に生きていて。
恋をして、結婚して、子どもが生まれて。
私は先生の、何も知らなかったんだって。
その時、足音が聞こえた。
驚いて手が滑って、写真たてが床に落ちる。
激しく音が響いて、見ると写真の表面のガラスにひびが入っていた。
一瞬で血の気が引く。
何てことをしてしまったんだろう――
それでもまた裏返して、引き出しに仕舞ったところで、ドアが開く音がした。
「誰かいますか?」
不思議そうな先生の声が響く。
私は返事も出来ずに、凍りついたように椅子に座っていた。
「あれ?笹森さん。ドアのところの張り紙、わかりませんでしたか?」
うつむいたまま黙って首を振る。
「どうしたの。」
そう問われても、何とも答えようがない。
この部屋に忍び込んで、先生の引き出しを開けて、大事なものを見たなんて。
そして、それを壊してしまったなんて。
「いいんですよ、ここにいても。……笹森さんを責めようってわけじゃない。」
優しい顔で、そんなこと言われたら泣きそうになってしまう。
こんなに最低な私に。
「ここは笹森さんの居場所です。」
私は、こんなふうに認めてほしかったんだ。
ここにいていいんだと、ただそれだけの言葉が欲しかった。
だから先生の過去も、幸せもそんなの、私には関係のないことなのに。
どうしてこんなに切ないんだろう。
どうしてこんなに、悲しいんだろう。
先生がこんなに近くにいるのに。
「職員会議中なんですが、忘れ物をしてしまって。」
困ったように微笑みながら、先生が言う。
先生のこんな情けないところ、人間らしいところが、たまらなく愛しい。
「じゃあ、戻らないと。戸締りは最後にするので、いつまでいてもいいですよ。下校時間までには帰るように。」
小さく頷くと、先生は安心したようにまた部屋を出て行った。
私のこと、信じてくれる先生に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
いつか、先生がこの引き出しを開けた時、驚くと思う。
私がそんなことをする生徒だと気付いたら、先生はもう優しくはしてくれない。
そしたらもう、私の居場所は本当にない。
先生がくれた居場所をいつまでも心に焼き付けておきたくて、それから下校時間まで、私はぼんやり席に座り続けた。
数学科準備室のドアに、張り紙がしてあったんだ。
笹森唯さんへ
申し訳ありませんが、緊急の職員会議なので今日はいません。
もしかしたら明日もいないかもしれません。
したがって、今週の補習はなしとします。
また来週来てくださいね。
天野
それを見て、私の心はさらに沈んだ。
仕方ないんだって分かっている。
今は私たち3年生の追い込みの時期。
模試の結果を頼りに、先生方もたくさん話し合わなければいけない時期。
だけど、今日は何故だか、無性に先生に会いたかった。
誰からも必要とされていない私の存在を、静かに受け止めてほしかった。
しかも今日は木曜日で、明日も会えなくて。
私、先生に会ってから、弱くなったよ。
ドアに手を掛けると、閉っているかと思ったのに案外あっさり開いた。
せめて、また先生の椅子に座って、景色を見ていたい。
先生になったつもりになって。
前のように椅子に座る。
日誌はどこかに片付けられていて、ボールペンも引き出しに戻されていた。
机の上には何もない。
でも、何か見つけたくて。
先生が大切にしているもの、見つけたくて。
私は一番下の引き出しを開けた。
そこには、なぜか裏返された写真たてが入っていた。
勝手に鼓動が高く鳴り響く。
見ちゃだめだ、傷付くだけだって。
そう思っているのに。
勝手に手が動いて、その写真を裏返したんだ――
今よりちょっと若い頃の先生。
そして、隣には可憐な笑顔を浮かべる、奥さん。
ふたりの間には、あどけない笑顔を浮かべる、幼い男の子。
ああ、これが現実なんだ、って思う。
私が生まれる前から先生はこの世界に生きていて。
恋をして、結婚して、子どもが生まれて。
私は先生の、何も知らなかったんだって。
その時、足音が聞こえた。
驚いて手が滑って、写真たてが床に落ちる。
激しく音が響いて、見ると写真の表面のガラスにひびが入っていた。
一瞬で血の気が引く。
何てことをしてしまったんだろう――
それでもまた裏返して、引き出しに仕舞ったところで、ドアが開く音がした。
「誰かいますか?」
不思議そうな先生の声が響く。
私は返事も出来ずに、凍りついたように椅子に座っていた。
「あれ?笹森さん。ドアのところの張り紙、わかりませんでしたか?」
うつむいたまま黙って首を振る。
「どうしたの。」
そう問われても、何とも答えようがない。
この部屋に忍び込んで、先生の引き出しを開けて、大事なものを見たなんて。
そして、それを壊してしまったなんて。
「いいんですよ、ここにいても。……笹森さんを責めようってわけじゃない。」
優しい顔で、そんなこと言われたら泣きそうになってしまう。
こんなに最低な私に。
「ここは笹森さんの居場所です。」
私は、こんなふうに認めてほしかったんだ。
ここにいていいんだと、ただそれだけの言葉が欲しかった。
だから先生の過去も、幸せもそんなの、私には関係のないことなのに。
どうしてこんなに切ないんだろう。
どうしてこんなに、悲しいんだろう。
先生がこんなに近くにいるのに。
「職員会議中なんですが、忘れ物をしてしまって。」
困ったように微笑みながら、先生が言う。
先生のこんな情けないところ、人間らしいところが、たまらなく愛しい。
「じゃあ、戻らないと。戸締りは最後にするので、いつまでいてもいいですよ。下校時間までには帰るように。」
小さく頷くと、先生は安心したようにまた部屋を出て行った。
私のこと、信じてくれる先生に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
いつか、先生がこの引き出しを開けた時、驚くと思う。
私がそんなことをする生徒だと気付いたら、先生はもう優しくはしてくれない。
そしたらもう、私の居場所は本当にない。
先生がくれた居場所をいつまでも心に焼き付けておきたくて、それから下校時間まで、私はぼんやり席に座り続けた。