雨の日は、先生と
第4章 すれ違い
けんか
先生とまた楠の木のところで待ち合わせた。
一緒に歩いて、職員用の駐車場を目指す。
先生が鍵を出して操作し、駐車場に何台か残っていた車の中の一台が反応する。
街灯に照らされていたのは、深いブルーの乗用車だった。
きっと、この車には幸せな思い出がたくさん詰まっているんだろうな。
考えなくてもいいようなことが、次から次へと頭に浮かぶ。
同時にこの間の写真をくっきりと思い出してしまう。
割ってしまった写真立てのことも。
先生はまだ、気付いていないのだろうか。
「笹森さん、どうぞ。」
先生が開けたのは、助手席のドアだった。
「え、でも……。」
――そこは先生の指定席でしょう?
そう尋ねる勇気がなくて、私は立ちすくむ。
「どうしたの。」
不思議そうな顔で見つめられたら、ここに乗るしかないんだろう。
「お、ねがいします。」
「いいえ。」
私が乗ったのを確認して、先生はバタン、とドアを閉めた。
思わず、見回してしまう。
何の変哲もない車内だった。
特に先生の生活を思わせるようなものはない。
ただ、ひとつだけ。
フローラルな香りの芳香剤が、私の胸を締め付ける。
先生が選ぶはずないよね、こんな女性的な香り。
「どうしました?」
固まっている私に微笑みかけながら、先生は音楽を流し始めた。
どこかで微かに耳にしたことのあるような、外国の音楽だった。
「緊張しているんですか?」
いたずらっぽい目で、私を見る。
「ちょっと。」
「何で緊張するの。」
ブレーキを離して、緩やかに車が発進する。
スーツで車を運転する男の人が、こんなにかっこよく見えるなんて知らなかった。
幼い頃に父を亡くして、それ以来男の人が運転する車になんて、乗ったことがなかったから。
「寒くないですか?」
「大丈夫です。」
ちょうどいいくらいの温度に、心地よい音楽。
そして、隣の先生の温もり。
こんなに居心地の良い場所を、私は他に知らなかった。
歩いても20分くらいの道のりだ。
車ならあっという間かと思いきや、思いのほか道が混雑していた。
「混んでますね。」
思い切って話しかける。
「そうですね。この通りは、この時間いつも混むんです。」
「先生の家、ここから反対方向なんですよね。」
「そうですよ。そんなに遠くないけれど。」
「先生の家って……、」
「もうすぐ公園です。」
言葉をかぶせられて、私ははっとする。
先生に、質問を遮られたような気がしたのだ。
家のこと、私に話したくないんだ――
そりゃ、誰だって秘密はあるよね。
私だって、絶対に先生にだけは、家の中のこと知られたくない。
ぐるぐると考えているうちに、車が公園の駐車場に滑り込んだ。
なんだか、後味が悪い。
せっかくこんなに素敵な時間を過ごした後だと言うのに。
「笹森さん、じゃあまた月曜日、」
「嫌です、先生。」
「え?」
先生が不思議そうな顔をする。
私は、のど元までせり上がってきた涙を必死にこらえていた。
「嫌だ。帰りたくない。」
「笹森さん。」
本当は、先生のこんなに困った顔、見たくない。
せっかく優しくしてくれている先生を、こんなふうに困らせてはいけない。
でも、どうしても耐えられなくて。
「お母さんとけんかでもしたんでしょう。」
首を振っているのに、先生は微笑んだままだ。
「そうなんでしょう?それで私のところなんかに来たんでしょう?」
やっぱり、先生は分かったふりして、何にも分かってないよ。
この苦しみを、分かってくれたわけじゃなかったんだ。
他の普通の高校生と同じようにしか、私のこと考えてないんだ――
「もういいです、先生。」
私は、自らドアを開けて車の外へ出た。
この居心地の良い空間を、自分から投げ出して。
「笹森さん、ちょっと待ってください。」
先生の焦ったような声を背に聞きながら、私は走った。
走りながら、涙があとからあとから流れた。
振り返って、そこに先生がいないことを確認して、また涙が溢れだす。
ほっとした反面、本当は追いかけてほしかったんだ、卑怯な私は。
現実を、見た気がした。
私が想っている1000分の1も、先生は私のこと想ってないんだ。
やっぱり先生には、奥さんも子どももいて。
それ以上に大切なものなんて、この世に存在しないんだ。
私が苦しんでいるからって、どんなに不幸だからって。
先生が私のこと、助けてくれるはずがないんだ――
泣きながら玄関のドアを開けて、そこに立っていた影に足がすくんで動けなくなる。
「こんな遅く帰ってくる不良娘なんか、何で飼ってんの?」
「唯、こんな遅くまで何してたんだよっ!言ってみろ!」
母に襟元を掴まれて、息ができなくなる。
「おい、言えよ不良娘。」
楽しんでいるかのような口調で大路さんが言う。
「……いたの。」
「は?聞こえないんだけど。」
「好きな人と一緒にいたの!!」
叫んだら、また涙があふれた。
こんなに先生のこと、ひどいと思っても。
それでも私、こんなに先生のこと、好き。
私のことを好きになってくれない先生でも、理解してくれない先生でも、好き。
好きな人、という呼び方で先生を呼んだ時、自分でも気付かなかったくらいの、この胸いっぱいの好きという気持ちがあふれだして。
同時に、先生にあんなふうに背を向けてしまった後悔が、津波のように押し寄せてきた。
「何が好きな人だよ!」
ここぞとばかりに私を殴る母。
大路さんが来たことで、母の行為が収まるなんて思っていた私は、なんて甘かったんだろう。
大路さんが私のことを嫌いだから、母は大路さんの前で今までよりもっと激しく、私に当たり散らして。
それを笑いながら見ている大路さんが、そこにいた。
一番かわいそうなのは、私じゃない。
こんなふうにしか夫に愛情を示せない母だ。
そして自分のこと後で責めること、私は知っているんだから。
でも、先生という支えを自分から放り出した今。
私はまた、一人になってしまった――
一緒に歩いて、職員用の駐車場を目指す。
先生が鍵を出して操作し、駐車場に何台か残っていた車の中の一台が反応する。
街灯に照らされていたのは、深いブルーの乗用車だった。
きっと、この車には幸せな思い出がたくさん詰まっているんだろうな。
考えなくてもいいようなことが、次から次へと頭に浮かぶ。
同時にこの間の写真をくっきりと思い出してしまう。
割ってしまった写真立てのことも。
先生はまだ、気付いていないのだろうか。
「笹森さん、どうぞ。」
先生が開けたのは、助手席のドアだった。
「え、でも……。」
――そこは先生の指定席でしょう?
そう尋ねる勇気がなくて、私は立ちすくむ。
「どうしたの。」
不思議そうな顔で見つめられたら、ここに乗るしかないんだろう。
「お、ねがいします。」
「いいえ。」
私が乗ったのを確認して、先生はバタン、とドアを閉めた。
思わず、見回してしまう。
何の変哲もない車内だった。
特に先生の生活を思わせるようなものはない。
ただ、ひとつだけ。
フローラルな香りの芳香剤が、私の胸を締め付ける。
先生が選ぶはずないよね、こんな女性的な香り。
「どうしました?」
固まっている私に微笑みかけながら、先生は音楽を流し始めた。
どこかで微かに耳にしたことのあるような、外国の音楽だった。
「緊張しているんですか?」
いたずらっぽい目で、私を見る。
「ちょっと。」
「何で緊張するの。」
ブレーキを離して、緩やかに車が発進する。
スーツで車を運転する男の人が、こんなにかっこよく見えるなんて知らなかった。
幼い頃に父を亡くして、それ以来男の人が運転する車になんて、乗ったことがなかったから。
「寒くないですか?」
「大丈夫です。」
ちょうどいいくらいの温度に、心地よい音楽。
そして、隣の先生の温もり。
こんなに居心地の良い場所を、私は他に知らなかった。
歩いても20分くらいの道のりだ。
車ならあっという間かと思いきや、思いのほか道が混雑していた。
「混んでますね。」
思い切って話しかける。
「そうですね。この通りは、この時間いつも混むんです。」
「先生の家、ここから反対方向なんですよね。」
「そうですよ。そんなに遠くないけれど。」
「先生の家って……、」
「もうすぐ公園です。」
言葉をかぶせられて、私ははっとする。
先生に、質問を遮られたような気がしたのだ。
家のこと、私に話したくないんだ――
そりゃ、誰だって秘密はあるよね。
私だって、絶対に先生にだけは、家の中のこと知られたくない。
ぐるぐると考えているうちに、車が公園の駐車場に滑り込んだ。
なんだか、後味が悪い。
せっかくこんなに素敵な時間を過ごした後だと言うのに。
「笹森さん、じゃあまた月曜日、」
「嫌です、先生。」
「え?」
先生が不思議そうな顔をする。
私は、のど元までせり上がってきた涙を必死にこらえていた。
「嫌だ。帰りたくない。」
「笹森さん。」
本当は、先生のこんなに困った顔、見たくない。
せっかく優しくしてくれている先生を、こんなふうに困らせてはいけない。
でも、どうしても耐えられなくて。
「お母さんとけんかでもしたんでしょう。」
首を振っているのに、先生は微笑んだままだ。
「そうなんでしょう?それで私のところなんかに来たんでしょう?」
やっぱり、先生は分かったふりして、何にも分かってないよ。
この苦しみを、分かってくれたわけじゃなかったんだ。
他の普通の高校生と同じようにしか、私のこと考えてないんだ――
「もういいです、先生。」
私は、自らドアを開けて車の外へ出た。
この居心地の良い空間を、自分から投げ出して。
「笹森さん、ちょっと待ってください。」
先生の焦ったような声を背に聞きながら、私は走った。
走りながら、涙があとからあとから流れた。
振り返って、そこに先生がいないことを確認して、また涙が溢れだす。
ほっとした反面、本当は追いかけてほしかったんだ、卑怯な私は。
現実を、見た気がした。
私が想っている1000分の1も、先生は私のこと想ってないんだ。
やっぱり先生には、奥さんも子どももいて。
それ以上に大切なものなんて、この世に存在しないんだ。
私が苦しんでいるからって、どんなに不幸だからって。
先生が私のこと、助けてくれるはずがないんだ――
泣きながら玄関のドアを開けて、そこに立っていた影に足がすくんで動けなくなる。
「こんな遅く帰ってくる不良娘なんか、何で飼ってんの?」
「唯、こんな遅くまで何してたんだよっ!言ってみろ!」
母に襟元を掴まれて、息ができなくなる。
「おい、言えよ不良娘。」
楽しんでいるかのような口調で大路さんが言う。
「……いたの。」
「は?聞こえないんだけど。」
「好きな人と一緒にいたの!!」
叫んだら、また涙があふれた。
こんなに先生のこと、ひどいと思っても。
それでも私、こんなに先生のこと、好き。
私のことを好きになってくれない先生でも、理解してくれない先生でも、好き。
好きな人、という呼び方で先生を呼んだ時、自分でも気付かなかったくらいの、この胸いっぱいの好きという気持ちがあふれだして。
同時に、先生にあんなふうに背を向けてしまった後悔が、津波のように押し寄せてきた。
「何が好きな人だよ!」
ここぞとばかりに私を殴る母。
大路さんが来たことで、母の行為が収まるなんて思っていた私は、なんて甘かったんだろう。
大路さんが私のことを嫌いだから、母は大路さんの前で今までよりもっと激しく、私に当たり散らして。
それを笑いながら見ている大路さんが、そこにいた。
一番かわいそうなのは、私じゃない。
こんなふうにしか夫に愛情を示せない母だ。
そして自分のこと後で責めること、私は知っているんだから。
でも、先生という支えを自分から放り出した今。
私はまた、一人になってしまった――