雨の日は、先生と
「笹森さん。」
「……なんですか。」
先生のことが好きなのに、大好きなのに。
その目の前から、一刻も早く立ち去りたくてたまらない。
消えてなくなりたい、と思った。
「あなたがお母さんのことを愛しているのは分かっています。」
いつもより大きな声で、言い聞かせるように言う。
こんなときでも、先生は先生だから――
「だから、『家出』しなさいと言っているわけではないんです。……誰だって、生まれ育った家を巣立っていく。そうでしょう?」
――『家出』じゃなくて、『巣立つ』?
「縛られなくていいんです。あなたは一人の人間なのだから。誰かを愛するために生まれてきた、一人の人間なのです。」
「一人の、人間?」
「そうです。あなたの人生は、誰にも邪魔できない。」
早口で言い切った先生は、いつもの穏やかな天野先生とは少し違って見えた。
私のことを、本気で心配してくれているんだ。
さすがの私も、認めるしかなくて。
だけど、素直に頷けないのは。
私が、まだまだ子供だから。
愛されたかった母親に、愛される日を待ち望む、小さな子どもにすぎなかったから――
「いつか、私も大人になって、」
「ん?」
絞り出した声に、耳を傾けるように、先生が近付いた。
「いつか、一人の女の人になったら、」
「はい。」
「お母さんよりもっと、私を、愛してくれる人が、現れますか?」
それは、先生じゃなくていい。
先生であってはいけない。
だけど、先生以外の人に愛されても、私は――
「唯。」
「天野、先生?」
どうして、
先生、
笹森さんって呼ばないの―――
先生は、数学科準備室のドアに近づくと、後ろ手で鍵を閉めた。
「唯は、もっと自分を大事にしなくてはいけないよ。」
「せ、ん、せい?」
そして、先生は私に、大股で近づいた。
先生の息が、前髪にかかるくらいの距離まで。
そして、先生はそっとささやいたんだ――
「愛されるということの意味を、教えてあげましょうか。」
戸惑っている私を、先生は思い切り抱きしめた。
泣いているときに、慰めてくれるのとは違う。
もっと、荒々しくて、それでいて、甘い――
そして、私の顔を覗き込むようにして、唇に触れるだけのキスを落として―――
私は、膝の力を失ってするり、と床に崩れ落ちる。
放心したように私を見下ろしている先生が、先生じゃなくて、一人の男の人に見えて。
こんなこと、許されるはずないのに。
今までとは比べ物にならないくらい、先生のことを好きだと思う気持ちが溢れ出す。
先生にとっては、ただの戯れかもしれなくても、ちょっとした出来心かもしれなくても……。
「すみません。」
小さく謝って、私に背を向けた先生。
私たちの間には、今までとは違う空気が流れている。
もう、今までみたいに無邪気に、先生のことを想うことはできなくて―――
「か、帰ります。……さようなら。」
「あ、ええ。……送りましょうか?」
「大丈夫です。」
ぎこちなく首を振って、震える足で準備室を出る。
出たところで耐えられなくなって、階段の隅に座り込んだ。
「先生……、」
一瞬だけ重なった唇を、人差し指で撫でてみる。
自分のものじゃなくなったみたいに、熱い。
「どうして、」
もう、引き返せない。
先生、今あなたは一人で、何を思っているの―――