雨の日は、先生と
久しぶりの先生の家。

クリスマスだというのに、住宅街は真っ暗だった。
その中に立つ、古いマンションの一室が、先生の家だ。

先生はほとんど口を訊かなかった。
だから私も、黙りこくっていて。

静かに車を停めた先生と、逃げるように玄関に駆け込んだ。



「おじゃまします。」


「いらっしゃい。」



先生の後を追って居間に向かう。
そこで、私は息を呑んだ。



「わあ……。」


「どうですか?」



部屋の隅には、大きなクリスマスツリー。
小さな音で、クリスマスソングのBGMまで流れている。
そして、テーブルの上に並ぶ、たくさんの料理とケーキ。



「す、ごい……。」


「たくさん食べてくださいね、笹森さん。」


「先生……。」



天野先生は、いつもより少し優しく笑っていた。



「こんなふうにお祝いしたの、今までで一回だけです。」


「笹森さんが、喜んでくれるかと思って。」


「それは、もちろん。」


「だって、あなたはお粥だけで涙を流すような、慎ましやかなお嬢さんですからね。」



先生に促されて、隣に座った。



「メリークリスマス。」



先生が、ビンのふたを開ける音が響く。



「え、先生、それは?」


「ああ、ただの炭酸飲料ですよ。シャンパンに似せているだけの。」


「へえ!」


「さすがに、未成年の笹森さんにお酒を飲ませたりしませんよ。」



先生は、そっと、グラスに飲み物を注いでくれた。
そのキラキラしている液体がまぶしかった。



「さあ、いただきましょう。」


「いいんですか?」


「いいに決まっているじゃないですか。誰の為に準備したと思っているのですか?」



この日、初めて先生が声を上げて笑った。
私もつられて笑ってしまう。



先生が取り分けてくれた七面鳥を一口食べて、幸せで胸がいっぱいになった。



「おいしいです。」


「それはよかった。」



目を細めて笑う先生の顔を見ながら、きゅっと胸が痛くなった。

これからもずっと、ずっと、ずぅーっと、先生のそばにいられたら。

そしたら、どんなに幸せだろう。



先生の温かい胸。

優しい笑顔。

ネコが好きで、困ったようにいつも笑っていて。

いつだって私のこと、何でも分かってくれて。

先生が、先生さえいれば、私は何も怖くない。


悲しい過去に、眉をひそめる表情も。

本気で愛していた、その人を想う表情も。

悲しい顔も、嬉しい顔も。

何もかも全部、全部が先生だから。

どの先生も、全部好きだから。

大事にしたいから。




「だけど、」


「はい?」


「だけど、先生。」





料理を口に運ぶ手が震えて、諦めてフォークを置く。

いつの間にか流れ出した涙が、はらはらと零れた。

しゃくりあげて、呼吸さえうまくできない。



「笹森さん?」



「…お、わり、…なん、で、しょ…?」



涙の合間に言葉を挟んだら、聞こえないくらいの小さな声になってしまった。

でも、先生は目を見開いて、打たれたように私を見つめていた。



「こ、れで……、最後、なんだよ、ね?」



「笹森さん……。」



心の底から否定してほしかったその言葉。
でも、先生は否定しなかったんだ。

弱々しく私の名を呼んだだけで、それだけで。



「先生―――」



こんなに好きなのに、大好きなのに。


先生は、さよならするために、私をここに呼んだんでしょう?



「笹森さん、」



先生の顔が歪む。

最近は、あの雨の日からずっと、感情のないような顔をしていた先生。

その先生が、その優しい顔を苦痛に歪めて、私を見つめていた。



「泣かないでください、笹森さん。」



無理だよ、先生。

いくら悲しみに慣れている私でも、先生を失って泣かずにいられるほど強くない。

だって、先生は私のすべてだから。



「泣くなっ!」



突然大きな声で、そう叫んだ先生は、耐え切れないように私に近づいて、そっと私を腕の中に閉じ込めた。



「抱きしめたくなってしまうじゃないか……。」



先生の背中にしがみついて、声を上げて泣いた。

先生の震えと、私の震えが重なる。



「一緒にいたい。先生と一緒にいたい。……ずっとずっと、一緒にいたい。隣にいたい。」



叶うはずない願いが、思わず口から零れ落ちる。



「すまない……、けじめをつけなければならないんだ。」



「先生っ!」



「すまん……。」



これが、最後なんだ。

先生の温度を感じられるのは。

先生のそばにいられるのは、これが。



放課後の補習も、もうないんだ。

夕暮れの数学科準備室へ、いろんなことがあったあの場所へは、もう戻れないんだ―――

卒業したら、とか。
そんな希望もない。
先生は、私のものじゃないから。

そんなの、最初から分かっていた―――


「先生、」



何度呼んでも、先生はもう何も言わなかった。

ずっとずっと、私を優しく抱きしめるだけで。

ただ、最後だけは、先生が先生と言う仮面を脱いでくれた気がして。

悲しすぎるけれど、嬉しかった―――
< 79 / 119 >

この作品をシェア

pagetop