雨の日は、先生と
「唯は何の勉強するの?」


「あ、えと……。」


はっとしてカバンの中を思い描く。
元々、勉強するつもりなんてなかった。

ただ―――

天野先生が残してくれた、たくさんのメモの字を読みたくて。
天野先生につながっていたくて。

数学の教科書と、ノートだけは持ってきている。


「数学、かな。」


「数学かあ……。俺苦手なんだよなー。でも、唯がやるなら俺も頑張るわ。」


そう言って、隣の机で数学の教科書を取り出す新野君。
私も、仕方なく教科書を開く。


久しぶりに開いた数学の教科書。
そこには、天野先生の几帳面な文字が並んでいた。
数式であったり、補足説明であったり。

いつも、教科書やノートに書き込みながら、分かりやすく説明してくれていたっけ。

ついこの間までのことなのに、ものすごく久しぶりに先生の字を見た気がする。


先生はこうして、一生懸命数学を教えてくれた。
それに―――





―――「愛されるということの意味を、教えてあげましょうか。」






先生は一生懸命、教えてくれようとしていたね。

自分の中の痛みと闘いながら。

あの雨の日、空を仰いで涙を流していた先生を、私はきっと、一生忘れない。




「どうしたの?」


「あ、」



教科書の文字を見てから、完全に意識が逸れていた私。
新野君は不思議そうな顔で、私を見つめていた。




「あ、それすごいね。全部説明?」


「え?あっ!」



新野君の手が私の教科書に伸びる。
私はとっさに、それを閉じてしまった。



「え、」


「あ、ご、ごめんね。これ……。」


「どうした?唯。」



文字だけで分かるわけないって、そんなこと分かってる。

先生との噂を知らない人はいないってことも。


だけど、あの準備室での日々だけは、誰にも知られたくなかった。

甘くて、切なさに満ちていて。

あの、二人だけの日々は―――



「それ、誰のメモなの?」


「……家庭教師の先生。」


「そっか。すごく丁寧だね。」



私の様子がおかしいことに気付きながらも、自然に振舞うのは新野君の優しさだろう。

こうして、嘘を重ねていくことでしか、私は人と関わることができなくて。


それを誰よりも憎んでいるのは、楓だ。

私の狡さを、甘さを、鈍感さを、すべて知っているのは彼女だけなんだ。



「唯、数学得意なの?」


「ん、まあ、ふつうかな。」


「じゃあさ、分かんなかったら教えてよ。」


「うん。いいよ。」



上の空のように頷いた私を見ている新野君の目に、一瞬だけ悲しみがよぎった。
でも、それはほんの一瞬のことで。

次の瞬間には、また蔭りのない笑顔を見せる彼がそこにいた。
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