妖勾伝
「いえ……
アヤ様、
もういいんだよ。
翠人の事は。」



耳の奥が痺れそうな、珀の声。

朱に縁取られた、鮮やかな口唇から漏れる吐息。


二人の張った空気が、瞬に解けた。



神月に柔らげな躰を預けていた珀はゆっくり立ち上がり、アヤの傍に歩み寄ると銚子に入った酒をすすめる。



珀の瞳に霞映る自身。

アヤはその瞳を何も云わず見つめたまま、猪口に入っていた銀の雫を一気に飲み下した。




「亡くなってしまった者の事を云っても、何も変わる事はない。
レン様の云うとおり、厄介事には首は突っ込まない事だよ。

そんな話はやめにして、ゆっくり楽しんでいっておくれよ。」



フワリと宙を掴むように音もなく立ち上がると、

珀は「足してくるわね」と神月に銚子をゆらゆらと見せた。



その場で立ち竦むレンに一目向けると、ゆっくり視線を外して広い座敷間から出ていく。





珀から一層漂う、香の匂い。

その鼻孔を擽る香に、思考が一瞬途切れる。

以前、嗅ぐったその香。




ーーー華の香だったか





レンは奥へと消えてゆく妖艶な珀の後ろ姿を見つめながら、

その曖昧な自身の記憶の中で、たゆたっていたのだった。


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