四月の魔女へ ~先生と恋に落ちたら~
夏目が話し始めたのは、生物の行動についてだった。


「多くの地上営巣性の鳥は、キツネのような捕食者が近づいてきたときに、いわゆる『擬傷』ディスプレイを行う。」

「擬傷?」

「そう。親鳥は片方の翼が折れているかのような仕草をしながら、巣から離れていく。」

「あっ、聞いたことある!擬傷って言うんだ……。」

「うん。捕食者は捕えやすそうな獲物に気付いて、おびき寄せられる。そして、雛のいる巣から離れる。」

「でもそれじゃ、お母さんが襲われちゃう。」

「いや、最後に親鳥はこの芝居をやめて、空中に舞いあがる、そしてキツネの顎から逃れる。」

「でもそれって……。」

「そう、親鳥は自分の雛の命を救うために、自分自身をかなりの危険にさらしているんだ。」

「……。」


その時心に鋭い痛みが走った。


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、・・・


あの日の光景がよみがえる。




雨。


どしゃ降りの雨。


まっしろな母の手の温度。


届かない声―――





「小倉?」

「うん……。」


気付いたら生物講義室の教卓の上に、ぽつりと涙をこぼしていた。

夏目はただ、生物の行動について話しているだけだと分かっている。

でも本当は、私の心に住んでいる悪魔を夏目は知っていて、責めているんだと思えてくる。


今なら分かる。

母は私を守るために早瀬と別れたんだと。

でもあの頃の私は、物事の裏を考えられるほど大人ではなかった。

ただ父が、父親という存在が恋しかっただけなのだ。


「小倉、どうした?」

「先生。私……。」

「ん?」

「やっぱり言えない。」

「なんだ。」

「言えないよ。」

「そうか。」


夏目はそれ以上何も言わなかった。

何も言わないで、教壇に腰掛けた。

私も少し迷ってから、夏目の隣に座った。

微かに触れる夏目の左肩が温かい。


そのゆったりした息遣いが、私の心を次第に落ち着けてくれる。


しばらくして、夏目は白衣のポケットからハンカチを取り出した。


「お前は気が強いくせに、泣き虫なんだから。今日泣くの二度目だぞ。」


笑いを含んだ声でそう言いながら、丁寧に頬を拭ってくれた。



言えないよ―――



なぜなら、夏目は大切な人だから。

私にとって、だれより大切な人だから。

だから言えない。


すべてを受け入れてほしいなんて、そんなことは叶わない。


話してしまえば私は楽になって、でもそれと引き換えに、大切な人を失うのだから。
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