四月の魔女へ ~先生と恋に落ちたら~
「失礼します。」


生物準備室の扉を開けると、驚いたように夏目が振り返った。


「小倉。来ないかと思った。」

「え?」


どうしてそんな。


「だってほら、昨日……。」


急に歯切れが悪くなる夏目。


「そんなことより、テスト!テスト受けに来たんですっ、私は。」


努めて明るく言うと、夏目は安心したように笑った。


「じゃあ、きっかり1時間だぞ。」


40分くらいでテストは終わって、私が見直しをしていると、夏目が気付いた。


「早いな、もう終わったのか。1個でも間違えたら帰さないぞ。」


何よ、昨日は帰れって言ったくせに。

私はわざと夏目と目を合わせずに、問題用紙とにらめっこする。

でもしばらくして、にらめっこには飽きた。

だけど時間が余っている限りは、せめて夏目のそばにいたかった。


「おまえさ、」


急に夏目が言った。


「はい?」

「やっぱりまだ、怒ってるだろ。」

「怒ってないですよ。」

「いや……、すまなかった。心無いことを言った。」


私は嬉しかった。

夏目がまだ、昨日のことを気にしていてくれたことが、嬉しかった。


急に、シャーペンを置いて夏目の顔を真正面から見つめ、にっこり笑って見せた。


「もう飽きちゃった。先生、終わりでいいですか?」


「あ、ああ。」


たじろいだ様子で、夏目が目をそらす。

しかし私は、夏目が目をそらした方向に動いて、

もう一度目を合わせた。


「先生、許した代わりに、お話ししてよ。先生の生物の話が聞きたい。」


夏目は目を見開いた。


「採点してからな。満点だったら話してやる。」


夏目は赤ペンを取り出して、採点し始めた。

私は、少し緊張して、その手元を見つめる。

夏目は、最後の一つに丸がついた瞬間、いきなり話し始めたんだ―――



「『しんかい6500』っていう潜水艦に乗った時の話なんだけど。」

「うん。」

「潜水艦って、操縦士と副操縦士、研究者の3人しか乗れないんだ。それに、『しんかい6500』は、日本には一隻しかなくてね、一度潜るのに1000万くらいかかるんだよ。潜水艦は重りをつけて、その重さだけで沈むんだ。調査が終わると、重りを落として浮力で戻ってくる。このときどこかに引っかかったりしたら、まず戻ってはこれない。だから、覚悟するように言われるんだ。」

「うん。」


自然に笑みが零れ落ちた。


「夏目先生、研究者だったんだ。」

「そう、深海の生物が専門だったから、今まで3回だけ潜水艦に乗らせてもらった。」

「深海って暗いの?」

「それは暗い。ライトで照らしながら調査するんだ。うつぶせに寝転んで小さな窓から調査するしかない。ずいぶんと不便だね。」

「そんなに狭いんだ。」

「狭いし、寒い。深海に行くと、気温は季節に関係なく5℃くらいまで下がるんだ。防寒対策もしっかりしておかないと大変なんだ―――」



夏目は夢中になって話していた。こんなに楽しそうに話す夏目を初めて見た。



「こんな話、楽しいか?」

「うん。楽しい。すっごく面白い。」



なにより夢中に話す夏目の表情が生き生きしていて、見ているだけで嬉しかった。

私のものじゃなくていい。


ただこの人が、この人だけが好きだと、心の底から思った。
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