四月の魔女へ ~先生と恋に落ちたら~
次の日。

リビングには早瀬はいなかった。
いったん帰ったのだろう。

家を出て、いつものように学校へ向かう。

止まりそうになる足を必死に進めて、何とかやってきた。


お昼になるのが怖かった。

夏目とどんなふうに向き合ったらいいのか分からなかった。

それに、私はさよならなんて言うつもりはなかったから。


「せんせっ!」

「小倉。俺明日から休みとるから、ほんとに今日だけだぞ。」

「いいよ。」


夏目が生物準備室の扉を開けて、私を招き入れてくれた。

ほんとはこぼれそうな涙をこらえるので精一杯だったけれど、夏目には何も感付かれないように振舞おうと決めた。


「ヒヨコ、どうだ?」

「元気だよ。ちょっとね、エサを多めにしたの。」

「ちゃんと食べた?」

「うん。食べた。」

「ならいい。」

「ねぇ、」
「なぁ、」


声が重なって、顔を見合わせて笑った。


「先生、いいよ。」

「あ、いや、大したことじゃないんだけど。……俺さ、今年初めて教師になったわけで、修学旅行って初めてなんだよね。」

「……修学旅行?」

「沖縄だろ。なんか楽しみだなぁ。」

「先生も修学旅行って楽しみなんだ。」

「あ、いや、多分教師には教師の仕事があって、大変だとは思うよ。でもさ、なんかその雰囲気って言うか。やっぱりいいよなぁ。」


先生と一緒に行きたかった。

言いたくても言えない言葉が、喉につかえて落ちた。


「楽しみだろ?小倉も、修学旅行。」

「うん。楽しみだよ。」


夏目に目を合わせないで言った。


「で、小倉は何言おうとしてたの?」

「……いいの。忘れちゃった!」

「いいのか。」

「あ、そうだ先生、久しぶりに生物の話が聞きたい。」

「そうか。」


しばらく考えていた夏目だったが、急に口を開いた。


「人間を不老不死にすること、できると思う?」

「どうなんだろ。でも仮にできるとしても、やっちゃいけない気がする。」

「ああ。有名な生物学者も同じ意見だ。それで、なんでやってはいけないかを説明するために聞くけど、がんってどんな病気か知ってるか?」

「なんか、悪性の腫瘍ができてどんどん大きくなる病気?」

「そうだ。DNAの端っこにはテロメアという部分があってね、その部分は普通なら細胞分裂を繰り返すたびに短くなっていく。でもがんに侵された部分では、このテロメアを元に戻す酵素が働いてしまうんだ。だから、がんに侵された腫瘍組織は無制限に大きくなっていく。」

「怖い。」

「そうだね。つまり、細胞が一個不老不死になったことで、一人の人間が死に追いやられる。」

「一個の細胞のせいで……。」

「ああ。それでね、これは生物界の縮図だと言われているんだ。」

「どういうこと?」

「細胞が一個不老不死になったことで、一人の人間が死に追いやられる。つまり、一人の人間が不老不死になったことで、人間という生物が死に追いやられる。それだけじゃない。人間という生物が不老不死になれば、生態系が崩れて、生物全体が破滅の道をたどるんだ。」

「人間が、生物全体にとってがん腫瘍みたいな存在になるっていうこと?」

「そういうこと。」

「先生は、不老不死になりたい?」

「いや。俺はそうは思わない。」

「じゃあもし、先生がその薬を発見して、まず自分で試してみなくちゃいけなくなったら?」

「そうだな……。誰かもう一人くらいにのんでもらおうかな。一人ぼっちは寂しいからね。」

「その時は、私が一緒だよ。そうすれば、知ってる人が誰もいなくなっても寂しくないから。」

「ばか……。」

「ばかじゃないよ。本気だよ。誰もいなくても先生がいれば、私は寂しくない。先生だけなんだよ。」

「分かったよ、約束する。」


え、と顔を上げると、夏目は笑っていた。


「俺はそんなに素晴らしい研究者じゃないから、万に一つ薬ができたとしても、効き目は確かじゃないけどな。」

「ありがとう。」


言いながら声が震えた。幸い夏目には気付かれない程度の震えだった。


「じゃあね、先生。楽しかった。」

「ああ。夏休み明けにな。お前、毎日学校来てたんだろ?そんだけ勉強したなら、残りの10日くらいすきなことしろよ。」

「好きなこと?それだったら、もう十分だよ。」


手を振って生物準備室を後にした。

もう涙をこらえる必要もない。


結局ハンカチは返してもらわなかった。


それさえあれば夏目は、私のことを忘れない。


そう信じて――
< 56 / 182 >

この作品をシェア

pagetop