その手に夫はキスを落とす

その本の名は



「何をそんなに熱心に読んでるの?」


従姉妹から借りたその本の名を『The knight kisses the hand of the princess』という。
そう母様に告げると「ふぅん」と気のない返事をされる。
けれど、次の瞬間に「ちょっと読ませて」なんて言ってくるから、学問書しか読まない母様にしては珍しいこともあるものだなと思った。


「アンナが貸してくれたのよ。いま街で流行ってるらしくて、これが結構面白いの」


「へえ」


アンナとはオリビア伯爵家の令嬢で私の従姉妹にあたる。
オリビア伯爵家は父様の出自だが、父様はどうやら庶民の出である母様をお嫁にもらったときに勘当されてしまったらしい。それでも交流が続いていることを考えると、関係は悪くはなさそうだけれど。
アンナは同い年ということもあって、よく遊びに来てくれるのだ。


「……ねえ、母様、本当に読んでる?」


「……」


凄い勢いでページをめくり始めた母様におずおずと尋ねるも、無言のままだ。
そのまま随分と時間が経過して、ぱたんと本を閉じた音に顔を上げると、何とも言えない表情をして彼女はこちらを見つめていた。


「面白くなかった? 決闘のシーンなんてすごく素敵だと思ったけれど」


「……ええと、これ、本当に流行ってるの?」


「どうして?」


私の言葉に母様は肺の空気が無くなってしまうんじゃないかというほどため息をついた。こめかみを押さえるその姿は、なんとなく父様の仕草に似ている。



「いえ、いいの、なんでもないわ。貴女が楽しいならまあ、いいわ……」


そう言われると、なんだか嫌な気持ちになる。
仮にも自分が気に入っている本だ。母様にも認めてもらいたい気持ちはある。


どうしたら興味を持ってくれるかな、と考えてひとつ閃いた。


「ねえ、父様って近衛兵隊の隊長でしょう? 昔はこの本の主人公みたいにお姫様の騎士やっていたりしたかもよ。
そういえば、エリシアに嫁いだ王女様いたじゃない。
その人の騎士だったかも!」


意気揚々と私が喋る傍らで、いつもは優雅な所作を崩さない母上が、紅茶を無言でグイグイと飲み干しているのが見えた。……どうしたんだろう、そんなにも喉が渇いていたんだろうか。


「ねえ、そう思わない?」


同意を求めるように尋ねるも、母様は私から視線を外しながら首を振った。


「思わないわよ。まさかディランがお姫様の騎士だなんて。
……失礼ばっかりして、きっとすぐクビになるのが目に見えてるわ」


「母様って現実主義よね。もっと想像力を育むべきだわ」


「そう言われてもねえ……。性格ってそうそう変えられないし」


「じゃあ、私が見本を見せるわ!」


そう言って私は本を片手にすっくと立ち上がる。


「ほら、母様想像して。母様はこのアリア王国の第一王女、サラ姫様。ディランという騎士が付いているの。二人は昔から想い合っているのに素直に気持ちを口に出せないのよ」


自分でもわかるくらいにキラキラとした瞳で手を握って、私は想像力を働かせた。恍惚とした表情で語り始めると、なんだか楽しくなってくる。まるですべてが実は現実に起こっていたんじゃないか、と思えるくらいにすらすらと口から物語が紡がれていく。


そしてそんな私を、母様は茫然と見つめていた。……母様には刺激が強すぎたのかしら? けれど唇は止まらずに動く。


「でもね、母様には悪い婚約者がいるの。そいつはサラとディランの仲を引き裂くのよ」


「婚約者って……、ラフィン殿下は悪い方ではなかったわよ?」


「……は?」


ぱちくりと目を瞬いて我に返る。母様の言葉が良く分からなかったからだ。すると母様は何かにハッと気づいたようで、慌てたように頭を振った。


「な、なんでもないの」


「そう? まあいいわ。それでね、その悪い婚約者はディランと決闘をするのよ。もちろん、サラをめぐってね!」


「ラフィン殿下と手合せしたのはわたくしだけどね……」


「そうして見事、騎士であるディランが勝つの。それからふたりは自分たちのことを誰も知らない土地でいつまでも幸せに暮らすのよ!」


「地元で暮らしているから、そこもフィクションよねえ……」


先程からボソボソとなにやら呟いている母様に眉を顰めた。いちいち茶々を入れられては、こちらとしても面白くない。


「母様、ちゃんと想像できてる? 母様はサラ姫様なのよ」


「ええ、想像できるわ、もちろん」


詰め寄ると、苦笑して母様は私の頭を撫でる。その口調は、少し困ったような響きだった。


「母様は、想像したことはないの?もしも自分がお姫様だったらって」


「……わたくしがお姫様なわけないじゃないの」


そう断言されて、これだから母様は、と言いながら。
たしかに一般人には荷が重い想像だったかな、と思い直す。


「そうよね、母様はそもそもパン屋で父様に見初められたんだもの。
それですら夢みたいな話なのに、自分がお姫様だって想像することはもっと難しいわよね」


そう言うと、母様は笑った。


end.



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