そばにいたこと
そのまま冷たい病院のロビーで、僕は眠りに堕ちた。





ポケットの振動でふと目を覚ます。




――うるさいな。



どうせ母親だろうと思った。
帰らない僕を心配して、電話をかけてきたんだ。

もう僕だって、子どもじゃないのに。


同時に、あまりにも焦っていて、病院なのに携帯電話の電源も切るのを忘れていたことに気付く。


鳴り終わらないケータイ。
出ないとまた後で、くどくどと小言を言われるに決まっている。
僕は仕方なく、発信者の欄も見ずに電話に出た。


「はい。」


『……。』


「もしもし?」


相手は無言で、時折すすり泣くような音が聞こえる。
僕は思わず、ケータイを取り落しそうになって、慌てて強く握った。
そして、聞こえてくる音に耳を澄ます。
いたずら電話だったら、すぐに切ろうと構えていた。


『……は、……るおか……くん。』


すすり泣きの合間、途切れ途切れに聞こえたその声。
別人のように弱々しいけれど、僕には分かった。


「沙耶。」


ロビーを見回す。
ここは病院だから、沙耶だってケータイは使えないはずだ。

しばらく視線を巡らせて、案外近くの公衆電話のところに、君の姿を見つけた。


どうして気付かなかったんだろう――


「沙耶!」


『だめだー。』


明らかに無理した、明るい声。
君はこの期に及んでも、僕に本当の気持ちを隠そうと言うのか。


『私……弱くて……。ひ、と、りで……抱えようと……思った、の、に、』


君は次第に泣き声になる。
やっと僕に頼ってくれたね、沙耶。

「沙耶。」

ゆっくりと君の元に足を進めながら、僕は限りなく優しい声で君の名を呼んだ。
それがすべてだった。
それ以上に大事な言葉は存在しないと思ったんだ。


『ご、めん、ね。……はる、おかくんの声、……聞きたくて。……ほんの少しでも、いい、か、ら。』


「うん。」


『わた、し、卑怯だね。は、るおかくんも、つらかったの、に。……自分勝手で、ごめ、』


沙耶が二回目の「ごめん」を口にしようとした瞬間、僕は後ろから、思い切り沙耶を抱きしめた。


「ごめんね、はもう要らない。」


受話器越しではなく、僕の声を直接君に届けたくて。

沙耶は受話器を取り落した。
机に当たって、乾いた音が響く。

君の胸の鼓動が、痛いくらいに僕に伝わってきた。
そして僕の胸も、休みなく早鐘を打ち続けていて。


君は何も言わなかった。
驚かせすぎたのかもしれないね。


でも、次の瞬間には君は、僕の腕の中でくるりと向き直った。
僕の制服のYシャツの袖を、強く握りしめて。
そして僕の胸に、深く顔を埋めて。

君は今までの分を取り返すように、背中を震わせて泣いていた。

僕はその震えを止めたくて、強く強く君を抱きしめていたね。



あのときの僕たちは、幸せだったのかな。

状況としては何一つ幸せではなかった。
でも、君は僕を欲していて、僕は君を欲していた。
その気持ちがやっと噛み合ったような気がして。

君が泣き止むまでずっと、僕はただひたすらに君を抱きしめていたんだ――
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