そばにいたこと
君の秘密
だけど、君はしばらくの間、僕には近くて遠い存在だった。
野球部のマネージャーになるなんて言ったくせに、君はいつまで経っても帰宅部で。
そもそも、あの自己紹介を、いつまでも覚えている僕の方がおかしいのかもしれなかったけれど。
そもそも女の子と話すこと自体、ほとんどない僕は、君に話しかける勇気がどうしても出せなかった。
いや、もともと話しかけるつもりなんてなかったんだ。
こうして、斜め後ろから君の真っ直ぐな背筋を眺めたり、友達と楽しそうに笑う君の姿を見ていれば、それで良かった。
こんなこと、初めてだったんだ。
いつだって僕は、野球にしか興味がなかった。
いや、野球にしか興味がないなんて、野球バカって思われそうだな。
僕はどんなに野球に打ち込んでいても、成績はトップクラスを保ってきた。
勉強は好きだ。
努力すれば結果が出るというのは、どこか野球に似ていた。
努力は僕にとって、息をするのと同じくらい、当たり前のことだったから。
そんな僕が、授業中にまで君を目で追ってしまうなんて、それまでには考えられないことだったんだ。
ある日のこと。
部活が終わった僕は、忘れ物を取りに教室へ向かった。
季節は、もう夏になりかけていたと思う。
日がのびたと言っても、7時を過ぎた校舎の中は薄暗くて、微かに残る夕陽が窓から差し込んでいた。
ガラッとドアを開ける。
と、そこには机に突っ伏す一人の影が、長く伸びていた。
その机が、君の席であることに気付いて、僕は密かに動揺した。
気配を感じてか、君ははっと身を起こし、ためらいがちに振り返った。
伏せられた睫毛が濡れていて、妙に艶やかである。
僕は、平静を装うので精一杯だった。
「伊藤、……泣いてるのか?」
言ってしまって後悔した。
ここは、気付かないふりをするべきだったのではないのか。
君にとっては、話したこともないただのクラスメイトの一人である、僕なんかが。
「ううん、ちょっと寝ちゃっただけ。」
案の定、そんな当たり障りのない返事が返ってきて。
だけど、その親しげな口調に、胸をときめかせる自分がいた。
「そ。……気をつけて、帰れよ。」
それが僕の精一杯だった。
本当は、君を送っていきたかったのだけれど。
みんなにもてはやされるエースの、本当の姿はこんなに情けなかった。
「うん。ありがとう。春岡くんもね。」
にこっと微笑んで彼女が言った。
君の透き通る声で、僕の名前が発音されるということが、これほどまでに特別なことだと知ったのは、この時だった。
すっと手を伸ばせば届く距離に君がいて、話しかければ答えてくれるというのに。
どうしてこのときの僕は、こんなに臆病だったんだろう。
もしも戻れるなら、ずっと君のそばにいたのに。
この時にもう、君の中で悪夢は始まっていた。
それに気付いてあげることができなかった僕は、何度思い返しても悔やまれる記憶として、この放課後を忘れられない――
野球部のマネージャーになるなんて言ったくせに、君はいつまで経っても帰宅部で。
そもそも、あの自己紹介を、いつまでも覚えている僕の方がおかしいのかもしれなかったけれど。
そもそも女の子と話すこと自体、ほとんどない僕は、君に話しかける勇気がどうしても出せなかった。
いや、もともと話しかけるつもりなんてなかったんだ。
こうして、斜め後ろから君の真っ直ぐな背筋を眺めたり、友達と楽しそうに笑う君の姿を見ていれば、それで良かった。
こんなこと、初めてだったんだ。
いつだって僕は、野球にしか興味がなかった。
いや、野球にしか興味がないなんて、野球バカって思われそうだな。
僕はどんなに野球に打ち込んでいても、成績はトップクラスを保ってきた。
勉強は好きだ。
努力すれば結果が出るというのは、どこか野球に似ていた。
努力は僕にとって、息をするのと同じくらい、当たり前のことだったから。
そんな僕が、授業中にまで君を目で追ってしまうなんて、それまでには考えられないことだったんだ。
ある日のこと。
部活が終わった僕は、忘れ物を取りに教室へ向かった。
季節は、もう夏になりかけていたと思う。
日がのびたと言っても、7時を過ぎた校舎の中は薄暗くて、微かに残る夕陽が窓から差し込んでいた。
ガラッとドアを開ける。
と、そこには机に突っ伏す一人の影が、長く伸びていた。
その机が、君の席であることに気付いて、僕は密かに動揺した。
気配を感じてか、君ははっと身を起こし、ためらいがちに振り返った。
伏せられた睫毛が濡れていて、妙に艶やかである。
僕は、平静を装うので精一杯だった。
「伊藤、……泣いてるのか?」
言ってしまって後悔した。
ここは、気付かないふりをするべきだったのではないのか。
君にとっては、話したこともないただのクラスメイトの一人である、僕なんかが。
「ううん、ちょっと寝ちゃっただけ。」
案の定、そんな当たり障りのない返事が返ってきて。
だけど、その親しげな口調に、胸をときめかせる自分がいた。
「そ。……気をつけて、帰れよ。」
それが僕の精一杯だった。
本当は、君を送っていきたかったのだけれど。
みんなにもてはやされるエースの、本当の姿はこんなに情けなかった。
「うん。ありがとう。春岡くんもね。」
にこっと微笑んで彼女が言った。
君の透き通る声で、僕の名前が発音されるということが、これほどまでに特別なことだと知ったのは、この時だった。
すっと手を伸ばせば届く距離に君がいて、話しかければ答えてくれるというのに。
どうしてこのときの僕は、こんなに臆病だったんだろう。
もしも戻れるなら、ずっと君のそばにいたのに。
この時にもう、君の中で悪夢は始まっていた。
それに気付いてあげることができなかった僕は、何度思い返しても悔やまれる記憶として、この放課後を忘れられない――