【完】そろり、そろり、恋、そろり
少しの沈黙のあと、考え込んでいた顔を、ほんの少し明るくさせた。何か思い出してくれたらしい。


「……あっ…。えっと、今日お店に来てくれたお客様……ですよね?」


俺の反応を確かめるように、彼女は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。ただ確信はないらしい。それでも、覚えていてくれた事が嬉いと思った。


「はい、そうです。覚えてもらえていて嬉しいです」


「えーまぁ……印象的だったので」


俺の事というよりも、今日の出来事の方を思い出したんだろう。お店での顔と少し違って、今の彼女の笑顔は少し引き攣っている。やっぱりお店での顔は営業用。今は少し気が緩んでいるのか、さっきよりも分かりやすく感情が顔に出ている。


「さっきはありがとうございました。機転利かせてもらって、すごく助かりました」


助かったのは本当だ。お店でもお礼は言ったけれど、改めて伝えたくなった。「そして、その気遣いに惚れました」って言葉は、もちろん飲み込んだ。そんな事言ったら、完全に引かれてしまう気がする。


「いえ、私は何も。本当は最初にもっと配慮しなくちゃいけなかったんですけど……不快な思いさせてすみませんでした」


あー、俺は謝って欲しかったわけではないのに。少しずつ彼女の顔が営業用らしきものに変わっていく事に気づき、寂しさを覚えた。この話を一旦切らなければいけない。そんな考えが頭に浮かんだ。


目の前の冷蔵されている棚から、ヨーグルトとプリンを適当に三つほど手にとって、そっとカゴの中に放り込んだ。そんな俺を見て彼女も手に持っていたケーキを、1つだけカゴに入れた。それだけで買い物は終わりだろうか。


「買うものはそれだけですか?」


「……?そうですけど?」


いきなりの俺の質問に、彼女は不思議そうに首を傾げている。


「ケーキは1つでいいんですか?」


「……1人ではそんなに食べれないですから」


未だに彼女の顔には訳が分からないとはっきりと書いてある。俺の意図は全く気づかれていないらしい。男の存在をさりげなく聞いたつもりだ。彼女からは少し嬉しい答えが返ってきた。とりあえず、今から男の所にという事はないらしい。
< 15 / 119 >

この作品をシェア

pagetop