【完結】ラブレター
1 海辺にて
1-1
198X年 夏――
「君たち、暇?」
海水浴に来ていた高杉俊と小松洋一は振り返った。
(でかい!)
俊は思わず胸のうちでつぶやいた。相撲取りのようなおばさんが仁王立ちのまま二人を睨んでいる。見るからに安物の青いサマードレス。首に巻いたタオル。汗みずくのおばさんは俊と目が合うとにこりともせず近づいてきた。
「ね、暇かい? 暇なら手伝ってくれないかい?」
「あの……」
二人が怪訝そうな顔をすると、おばさんは続けた。
「バイトの子が急病で来られなくなっちまってさ。店を手伝っておくれでないかい? そこの海の家をやってるんだ」
おばさんはみすぼらしい小屋を指さした。看板に「フィッシュボーン」とあった。
「僕ら遊びに来てるんで、バイトする気はないんです」俊が答えた。
「そう言わずに今日だけでいいんだけどね。時給千円だすからさ。午後から混みだすんだよ。私と娘だけじゃあ、手が足りなくてさ」
「仕事は何をするんですか?」洋一が聞いた。
「ウェイターだよ。焼きそばやかき氷を運んでくれればいいのさ」
その時、若い女の声が聞こえた。よく通るきれいな声だ。
「お母さん、早く戻ってきて。お客さんよ!」
「あいよ、今行くよ」
おばさんは海の家に向って咆哮すると、二人に向き直った。
「手伝ってくれる気になったら、来ておくれ、ね」
おばさんはゆさゆさと体を揺らしながら店に戻って行った。おばさんがいなくなると俊は言った。
「俺はいやだぞ! せっかく遊びにきたのにバイトなんて! 洋一、なんだって仕事の内容なんか聞いたんだ」
「いや、その、娘が気になって」
「ナンパな奴だな。あのおばさんの娘だぞ。母親が横綱なら、娘だって関取に決まってるじゃないか!」
「それは偏見だぜ。きれいな声だったじゃないか、もしかしたら可愛い娘かもしれない」
洋一は鼻の下を伸ばした。
「ああ、もう勝手にしろ!」
「そう言うなよ! ちょっと、どんな娘か見て来るからさ!」
洋一は、パラソルにひっかけておいたアロハシャツを羽織ると、海の家に向かって歩きだした。俊は、仕方ないなあと思いながら、そのまま御座の上にどさりと横になった。
俊と洋一は桐野新生大学、略して桐新大の学生だ。二人は同じ経済学部で、何度か顔を合わせる内に友人になった。俊は、男のくせに髪を長く伸ばし女の子に気軽に声をかける洋一を軽い奴だと思っていたが、洋一が剣道の有段者だと聞いて一目置くようになった。剣道の有段者には一朝一夕でなれる物ではない。ただの軽い奴ではないのだろうと俊は洋一を見直した。
洋一の方は、女の子に声をかけると必ず俊に辿り着いた。整った顔立ち、切れ長の目、濃く長い睫毛、すらりと伸びた足、バランスのいい身体。女の子達は遠くから頬を染めて俊を見ていた。俊の側にいれば女は自然に寄って来る筈と洋一は思った。しかし、俊を目当てに寄って来た女の子達は洋一に目もくれなかった。洋一はがっかりしたが、俊とつるむのは面白かったのでそのまま友人になった。
俊はどちらかというと口数の少ない男だったが、洋一が気軽に話しかけると結構のって来た。洋一がジョークを言うと、俊はそれは面白くないと言って笑った。
俊は、運転の疲れが出たのか、御座に横になると、うとうとと眠ってしまった。
眠りにつく直前、俊は今朝、父親と交わした会話が頭をよぎった。夏休みだからドライブに行ってくるという俊に父親は、「そうか……、小遣いは足りてるか?」と言った。「親父、俺、二十歳過ぎてるから」と苦笑混じりに俊が言うと、父親はまじまじと母親によく似た美貌の息子を見た。
「図体だけは大きくなったな……、いつ帰るんだ?」
「日帰りのつもりだけど、行き先決めずに行くから、明日になるかもしれない」
「……どこに行くんだ?」
「房総半島の方」
「……モデルの佐伯君と行くのか?」
俊はもう一度苦笑いをした。
「佐伯さんとは別れた。洋一と行くんだ」
「昨日もおまえに手紙が来てたな? 女の子からだろう。遊ぶのもいいが、よそ様のお嬢さんを傷つけるんじゃないぞ」
俊は頭をかいた。父親が何を言おうとしているのかよくわかった。
「親父……、安心して、俺、不純異性交遊はしてないからさ」
父親は俊のものいいにちらっと眉をしかめ、ため息をつきながら言った。
「ああ、そうしてくれ」
父親の啓介は知っていた。俊が決して同じ大学の女子学生と付き合わない事を。俊の相手がいつもとびきりの美人であり、年上だという事を。男と女の恋愛ゲームを知っていて、いつか別れる事を、綺麗に別れる事を互いに了解している、そういう女。俊の相手はいつもそういう女だった。
父親の啓介はほーっとため息をついた。成績もよく、スポーツにしろ何にしろ優秀な息子が、一体何時になったら真面目な恋をするのだろうと啓介は俊の将来を心配した。やはり母親の行状のせいかと啓介は思ったが口には出さなかった。
「……気をつけて行ってこい。スピードを出し過ぎるなよ」
俊は出て行く父親の背中に向って心の中で言った。
(さっさと再婚すりゃあいいのに……)
母親が他所に男を作って出奔したのは、俊が三つの時だった。
俊は祖母と田舎で暮らした。最初は母親のいない淋しさに泣いたらしい。祖母は俊に「母親は死んだ」と嘘をついた。父親は東京で忙しく働いた。父親は高度経済成長で沸く日本を背負う企業戦士だった。繊維関係の商社を経営している。しかし、正月になると父親の啓介は必ず帰省し祖母と俊を喜ばせた。俊は運動会や授業参観が嫌いだった。友達がそれぞれ母親や父親と楽しそうにしているのに、自分には祖母しかいない。自分がよそと違うのだと強く意識した。それが嫌だった。
或る日、クラスのいじめっ子から、「お前の母親は男と逃げたんだってな」とからかわれたた。違うと叫んでいじめっ子に飛びかかった。取っ組み合いになった。結局、いじめっ子が嘘だと認めて喧嘩は終わった。しかし、家に帰って祖母に問いつめると、「死んだも同じだ」と険しい顔をして言われた。ほどなくして、祖母が死に、俊は父親に引き取られた。東京に出て来て以来、俊は学校の友達と距離をおいた。母親が生きており、家族を捨てて出て行ったという事実は子供の心にどこか影を作った。俊は父親が朝早くから夜遅くまで仕事をする姿を見て、父親に甘えてはいけないと思った。俊は親から自立する道を子供の頃から選んでいた。なんでも一人でやった。父の家には通いの家政婦が来たが、家政婦の作る料理は祖母の味とは違った。俊は自分で料理を作るようになった。父親に出し巻玉子を作って出すと、父親が感激した。
「お袋が作ったみたいだ」
父親の啓介が、目頭を押さえた。
以来二人は、親子というより共に生活をする同志として暮らしている。
「君たち、暇?」
海水浴に来ていた高杉俊と小松洋一は振り返った。
(でかい!)
俊は思わず胸のうちでつぶやいた。相撲取りのようなおばさんが仁王立ちのまま二人を睨んでいる。見るからに安物の青いサマードレス。首に巻いたタオル。汗みずくのおばさんは俊と目が合うとにこりともせず近づいてきた。
「ね、暇かい? 暇なら手伝ってくれないかい?」
「あの……」
二人が怪訝そうな顔をすると、おばさんは続けた。
「バイトの子が急病で来られなくなっちまってさ。店を手伝っておくれでないかい? そこの海の家をやってるんだ」
おばさんはみすぼらしい小屋を指さした。看板に「フィッシュボーン」とあった。
「僕ら遊びに来てるんで、バイトする気はないんです」俊が答えた。
「そう言わずに今日だけでいいんだけどね。時給千円だすからさ。午後から混みだすんだよ。私と娘だけじゃあ、手が足りなくてさ」
「仕事は何をするんですか?」洋一が聞いた。
「ウェイターだよ。焼きそばやかき氷を運んでくれればいいのさ」
その時、若い女の声が聞こえた。よく通るきれいな声だ。
「お母さん、早く戻ってきて。お客さんよ!」
「あいよ、今行くよ」
おばさんは海の家に向って咆哮すると、二人に向き直った。
「手伝ってくれる気になったら、来ておくれ、ね」
おばさんはゆさゆさと体を揺らしながら店に戻って行った。おばさんがいなくなると俊は言った。
「俺はいやだぞ! せっかく遊びにきたのにバイトなんて! 洋一、なんだって仕事の内容なんか聞いたんだ」
「いや、その、娘が気になって」
「ナンパな奴だな。あのおばさんの娘だぞ。母親が横綱なら、娘だって関取に決まってるじゃないか!」
「それは偏見だぜ。きれいな声だったじゃないか、もしかしたら可愛い娘かもしれない」
洋一は鼻の下を伸ばした。
「ああ、もう勝手にしろ!」
「そう言うなよ! ちょっと、どんな娘か見て来るからさ!」
洋一は、パラソルにひっかけておいたアロハシャツを羽織ると、海の家に向かって歩きだした。俊は、仕方ないなあと思いながら、そのまま御座の上にどさりと横になった。
俊と洋一は桐野新生大学、略して桐新大の学生だ。二人は同じ経済学部で、何度か顔を合わせる内に友人になった。俊は、男のくせに髪を長く伸ばし女の子に気軽に声をかける洋一を軽い奴だと思っていたが、洋一が剣道の有段者だと聞いて一目置くようになった。剣道の有段者には一朝一夕でなれる物ではない。ただの軽い奴ではないのだろうと俊は洋一を見直した。
洋一の方は、女の子に声をかけると必ず俊に辿り着いた。整った顔立ち、切れ長の目、濃く長い睫毛、すらりと伸びた足、バランスのいい身体。女の子達は遠くから頬を染めて俊を見ていた。俊の側にいれば女は自然に寄って来る筈と洋一は思った。しかし、俊を目当てに寄って来た女の子達は洋一に目もくれなかった。洋一はがっかりしたが、俊とつるむのは面白かったのでそのまま友人になった。
俊はどちらかというと口数の少ない男だったが、洋一が気軽に話しかけると結構のって来た。洋一がジョークを言うと、俊はそれは面白くないと言って笑った。
俊は、運転の疲れが出たのか、御座に横になると、うとうとと眠ってしまった。
眠りにつく直前、俊は今朝、父親と交わした会話が頭をよぎった。夏休みだからドライブに行ってくるという俊に父親は、「そうか……、小遣いは足りてるか?」と言った。「親父、俺、二十歳過ぎてるから」と苦笑混じりに俊が言うと、父親はまじまじと母親によく似た美貌の息子を見た。
「図体だけは大きくなったな……、いつ帰るんだ?」
「日帰りのつもりだけど、行き先決めずに行くから、明日になるかもしれない」
「……どこに行くんだ?」
「房総半島の方」
「……モデルの佐伯君と行くのか?」
俊はもう一度苦笑いをした。
「佐伯さんとは別れた。洋一と行くんだ」
「昨日もおまえに手紙が来てたな? 女の子からだろう。遊ぶのもいいが、よそ様のお嬢さんを傷つけるんじゃないぞ」
俊は頭をかいた。父親が何を言おうとしているのかよくわかった。
「親父……、安心して、俺、不純異性交遊はしてないからさ」
父親は俊のものいいにちらっと眉をしかめ、ため息をつきながら言った。
「ああ、そうしてくれ」
父親の啓介は知っていた。俊が決して同じ大学の女子学生と付き合わない事を。俊の相手がいつもとびきりの美人であり、年上だという事を。男と女の恋愛ゲームを知っていて、いつか別れる事を、綺麗に別れる事を互いに了解している、そういう女。俊の相手はいつもそういう女だった。
父親の啓介はほーっとため息をついた。成績もよく、スポーツにしろ何にしろ優秀な息子が、一体何時になったら真面目な恋をするのだろうと啓介は俊の将来を心配した。やはり母親の行状のせいかと啓介は思ったが口には出さなかった。
「……気をつけて行ってこい。スピードを出し過ぎるなよ」
俊は出て行く父親の背中に向って心の中で言った。
(さっさと再婚すりゃあいいのに……)
母親が他所に男を作って出奔したのは、俊が三つの時だった。
俊は祖母と田舎で暮らした。最初は母親のいない淋しさに泣いたらしい。祖母は俊に「母親は死んだ」と嘘をついた。父親は東京で忙しく働いた。父親は高度経済成長で沸く日本を背負う企業戦士だった。繊維関係の商社を経営している。しかし、正月になると父親の啓介は必ず帰省し祖母と俊を喜ばせた。俊は運動会や授業参観が嫌いだった。友達がそれぞれ母親や父親と楽しそうにしているのに、自分には祖母しかいない。自分がよそと違うのだと強く意識した。それが嫌だった。
或る日、クラスのいじめっ子から、「お前の母親は男と逃げたんだってな」とからかわれたた。違うと叫んでいじめっ子に飛びかかった。取っ組み合いになった。結局、いじめっ子が嘘だと認めて喧嘩は終わった。しかし、家に帰って祖母に問いつめると、「死んだも同じだ」と険しい顔をして言われた。ほどなくして、祖母が死に、俊は父親に引き取られた。東京に出て来て以来、俊は学校の友達と距離をおいた。母親が生きており、家族を捨てて出て行ったという事実は子供の心にどこか影を作った。俊は父親が朝早くから夜遅くまで仕事をする姿を見て、父親に甘えてはいけないと思った。俊は親から自立する道を子供の頃から選んでいた。なんでも一人でやった。父の家には通いの家政婦が来たが、家政婦の作る料理は祖母の味とは違った。俊は自分で料理を作るようになった。父親に出し巻玉子を作って出すと、父親が感激した。
「お袋が作ったみたいだ」
父親の啓介が、目頭を押さえた。
以来二人は、親子というより共に生活をする同志として暮らしている。