放課後~君とどこへ行こう~(短編集)
4、臆病者の誓いごと
『臆病者の誓いごと』

「あぁ俺今すっげぇ幸せだ」
 圭吾がそう呟くと、キッチンに立つ沙織がカウンター越しに怪訝な顔をした。
 デートの帰りは毎回お決まりのようにどちらかの家に寄り、沙織が手料理を振る舞うことになっている。
 漂ってくるグラタンの香りが鼻腔を優しくくすぐってきて――、そうしたらうっかり呟いてしまっていた。
「どうしたの? 唐突にそんなこと言って」
「……いや? ただ、グラタンのいい匂い嗅いでたら急に何か幸せだなぁって思ったんだよ」
「……それ本当? 圭吾なんかおかしいよ。今日のデートもなんか時々上の空だったし……」
 どんどん影を濃くする沙織の眉間のシワに圭吾は思わず苦笑した。
 沙織は聡い女だ。人の感情に人一番敏感で、頭の回転が速い。圭吾も今まで沙織のそんなところに幾度となく救われて来た。けど、今はそれが完全仇になってしまっている。……もちろん圭吾にとって。
「沙織は心配しすぎだよ。本当になんでもないんだって。ただちょっと想像しゃっただけ」
「……何を、って聞いていい?」
「何、聞いてくれるの?」
「うん、まぁ……何か深刻な話?」
「いや? ただ……大学卒業したら毎日朝から晩まで沙織のご飯が食べたいなぁって思っただけ」
 沙織の形の良い目がまん丸に見開かれ、圭吾を見つめる。
「え……何それ。それってなんかプ……」
「プロポーズだけど?」
 間髪入れずそう言うと、沙織の肩が小さく跳ねた。
「……そ、そう。分かった。じゃあ、その……グラタンあとちょっとでできるから待ってて。あたし焼き上がるまでにサラダ作っとくから圭吾は机拭いといて」
 珍しく頬を赤くしてテンパっている沙織を前に、圭吾は微笑ましくなると同時に、胸がちくりと痛むのを感じた。

 一週間前、ピアノの演奏旅行のために日本を発つことが決定した。
 学校を1年間休学しての演奏旅行は、師匠の一存で長期化する可能性がある。
 その間ずっと待っててくれだなんて、とても言えたことではなかった。沙織の気持ちが自然に離れていくならそれはそれで仕方のないことなのだから。
 けれど「じゃあ別れましょう」と言われる のも怖くて、圭吾はいまだ沙織に切り出せないでいる。

「沙織ー好きだよー」
 なんとなく魔がさして、沙織のいるキッチンに向かってそう呼びかけてみた。
 言ってから普段あまり言ってやっていないことに気が付く。
 キッチンからガチャンと派手な音が鳴り響き、続いて「あぁっ! ドレッシングが!」という叫び声が聞こえてきた。自分が発した言葉の以外な効果に圭吾は堪えきれず吹き出してしまう。
「ちょっと圭吾! 笑っている暇あったら さっさと机拭いて!」
「ごめんごめん。分かった分かった」
 カウンターから睨みを効かせる沙織を軽くいなして圭吾は立ち上がった。
 やっぱ無理だ。自分からはとてもじゃないけど手放せない。
 例え彼女が痺れを切らして自分の元から去ったとしても自分だけは強く想い続けていようと圭吾は固く誓った。

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