黄昏時に恋をして
 下拵えが終わり、真奈美さんとふたりで志木厩舎に足を運んだ。真奈美さんの父は調教師。簡単に言えば、厩舎が学校、調教師が先生で、所属する騎手は生徒、みたいなものか。実際に、調教師のことをみんな『先生』と呼んでいるもんね。
「おはよう」
 真奈美さんが志木先生の姿をみつけて、大きく手を振った。なんとなく、来てはいけない場所な気がして、心が落ち着かない。
「おう! 潤は攻め馬(調教)に行っているぞ」
 どうやらふたりは公認の仲のようだ。
「ちょっとだけ見学してもいい? 食堂の新人さんが見たことないから連れてきたの」
「はじめまして。上尾です」
 真奈美さんから紹介されて、慌てて頭を下げた。志木先生は笑顔で軽く会釈し、見学できる場所まで案内してくれた。戸田さんはどこだろう。広いし、どれだかよく見えないけれど、蹄の音が凄くて、胸に響いた。こうやって見ると競馬って単なるギャンブルじゃなくて、スポーツなんだと思った。
「お疲れ様」
 爽やかな笑顔を振りまいて熊谷さんが戻ってきた。
「汗も滴るいい男! だね」
「何を言ってんだか。おたかさんも来てくれたんだ?」
「お疲れ様です」
 私に視線を向けた熊谷さんに、慌てて頭を下げた。人のものだとわかっていても、ワイルド系イケメンにドキドキしてしまう。
「ヒロはもうすぐ来るよ」
 どうして私が戸田さんを探していること、バレているの? 思わず赤面。
「アイツ、アドバイス通り、髪を切ったね。うまくいくんじゃないの?」
「な、なんのことですか?」
「とぼけてもダメだよ。おばさん方から情報仕入れたりしたら、すぐに筒抜けだよ」
 おばさん方から真奈美さんの耳に入り、さらには熊谷さんにまで。私が戸田さんを好きなことをとぼけても無駄なようだ。
「大丈夫だよ。本人は、わかっていないから」
 戸田さん本人が気付いていないなら良いけれど。耳まで真っ赤なのが、恥ずかしくてたまらない。
「わ、私、帰ります!」
「え? どうしたの、おたかさん」
「お疲れ様でした! さよなら!」
 こんな状態で、戸田さんに会うことはできない。戸田さんが戻ってくる前に、ふたりを置いて、厩舎から走り去った。
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