苦恋症候群
「さとり……」



キスの合間に低くささやかれる自分の名前が、このときばかりはとても特別なものに思えた。

大好きなその声を耳から脳内に吹き込まれるだけで、私はどろどろに溶かされてしまう。


ちょっとだけほろ苦い、コーヒー味の大人のキス。

恋人同士がするようなとろけるそれに酔いしれながら、ふと薄目を開けると。



「……ッ!」



目が、合った。

今まさにキスを交わしている、真柴課長とじゃない。不覚にも少しだけ開いてしまっていた、出入口のドアの向こうに立つ人物とだ。

さあっと身体中から血の気が引く。ドアに背を向けている課長の顔を殊更隠すように、慌てて頬を包んだ。

まずい。少なくとも、彼の顔を見られるわけにはいかない。

そうして次に私がドアの方へと視線を向けたときには……先ほどいたはずの人物の姿は、消えていた。
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