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禁門の変
元治元年7月19日 禁門の変 反乱を起こした長州藩士の鎮圧に新撰組が出動した。
急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、
藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。
一方、京や大坂に潜伏した数名の長州尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。
政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、
1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。
しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。
こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。
長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。
積極策を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。
6月5日の池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、
慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。
益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉り、
長州藩に同情し寛大な措置を要望する藩士や公卿もいたが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介らは議して、
長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。
朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。
禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。
久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押されやむなく挙兵。
19日、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。
一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。
御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは自害した。
帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。
戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火で京都市街は21日朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。
長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされている。