HとSの本 ~彼と彼女の話~

彼の日

 何をやっているんだろうなあ。

 それは何度目の独白だっただろうか。

 弁当を開きもせずに、楠の傘で何とか雨をしのいでいるだけだった。
 中身は大丈夫だし、その気になれば走って校舎に戻れるだろう。

 だがそんな気は起きない。
 もはや途中から意地ではなく、ある義務感でここに通うようになってしまった。

 これは習慣だ。
 目的を果たすまではやめられない、そのための、唯一の手段。

 ずぶ濡れのままじゃ気持ちが悪い。雨の日というのは気分を沈ませる魔法だ。
 いくら空腹が訴えてきても手が伸びない。そのままぼんやりと、前髪から垂れてくる水滴だけを眺めていた。


「――――どうして」


 初めて聞いたんじゃないだろうか。

 この場所で、
  自分以外の、
   誰かの声を。

 恥じらいの声しか、それもきちんとした対話ではない。

 この時初めて、自分は彼女の声を聞いたんだ。

 雨の中傘もささず、傘に入らずに、濡れた前髪の下から自分を見つめていた。
 どうしてと、繰り返しながら。

「どうしてこんな場所にいるの。わたしが来ないのはわかっているのに」

 何故だろう。俯いて訴えるように投げかけてくる瞳が。

 まるで――――泣いているように、見えるのは。



「貴方は――――どうしてここにいるのっ」




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