天使のアリア––翼の記憶––

「えー、ここでこの式を変形して、この公式を用いる。で、ここにこの式を代入してー」

授業が始まって、みんなは黒板とノートを交互に見ながら必死に手を動かしている。

私もノートに書きとっているけれど、その速度は遅い。

板書を書き写すのを諦めて、ぼうっと窓の外を眺めた。

梅雨の曇り空。西の空には暗い雲が迫っていて、もうじきこちらでも雨が降りそうだ。

黒板に目を戻すと、ウサギの姿が見えて、また目を逸らした。


ウサギのことが、真っ直ぐ見れない。


なんだか、気まずいなぁ。


私はそっと心に問いかける。


私は、ウサギが好き?

うん。


どうして?

幼馴染だから。小さいころからずっと一緒にいるし。


じゃあ、ウサギと付き合おうと思う?

…それは…



「…ら……はら…」


ウサギと付き合える? 付き合えない? どっち?

はっきりしてよ。もうこれ以上迷いたくは…

「…華原!」

「はい!」

叫ぶと同時に立ち上がった。条件反射である。

先生はというと、お怒り状態でこちらを睨んでいた。

周りからはクスクスと笑う声が聞こえてくる。

どうやらぼーっと窓の外を見ていたことがまずかったらしい。

あぁ、恥ずかしいなあ……

「授業中によそ見をしないこと!」

「すみません…」

小さく謝って座ると、授業は再開された。

『馬鹿月子!』

いつもなら聞こえるであろう罵声が聞こえない。

人の不幸は蜜の味と言わんばかりの嬉々として喜ぶ笑顔も、見えない。

ウサギは茶化して笑うこともなく、ただ黒板を見てノートを書き取っていた。

その真っ直ぐな瞳に、私は写らない。

たった、1ミリさえ。


…何だか、寂しい。


壁がある。

私とウサギの間に、壁がある。


そう思った。


その壁が、私達が今まで長い時間をかけて作り上げてきた絆を壊して、その上にそびえ立っている。


私達の関係を、絆を、いとも簡単に壊してしまったのだ。


だけどその壁は、簡単には壊せない。

壊せるかどうかも、分からない。


それほど固くて、分厚い壁だから。


だから、ウサギのことも、何も、分からないの。

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