天使のアリア––翼の記憶––
「ん? どうした?」

そんな考え事をしていたら、藍羅先輩に尋ねられてしまった。

「あ、いや、何でもないです!」

練習しましょう!と言って私は持ってきた楽譜をピアノに置いた。

「あぁ…」

藍羅先輩は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。

「でも、珍しいですね。先輩がわざわざ昼休みに練習しようって提案なさるなんて」

そう問いかけると、藍羅先輩はムッと眉間にしわを寄せて答えた。


「…アイツが、来るから」


「アイツ?」

一瞬首を傾げたが、すぐに分かった。


藍羅先輩がアイツなんて呼ぶのは、あの人だけ。

眉間にしわを寄せるほど気に掛けるのは、あの人だけ。


「アイツが、笑顔であたしの名前を呼ぶから、なんか、ムカつく。だから、アイツを視界にいれないように」

「デューク先輩は、藍羅先輩が大好きですからねー」

私がさらりと言うと、先輩は顔を真っ赤にして全力で否定した。

「な、ななななんで、ああああ、あ、アイツの名前が出てくるんだよ!? べ、べべべ別に、デュ、デュークなんて、か、関係ないし!」

何を言いだすんだと言って先輩は混乱した。

それを見ながら、私はニコニコと笑顔を浮かべていた。


嘘が分かりやすすぎるったら、ない。最早弁解が弁解になっていない。

藍羅先輩は、嘘をつくのが本当に苦手な方だ。

それともデューク先輩絡みだからだろうか。

どちらにしろ、可愛らしいのには変わりないのだけど。


「そ、それより!」

先輩は大きな声を出した。

「つ、月子に相談があるんだ!」

「相談ですか?」

「今度の演奏会のことなんだがな…」

「ルナ・プリンシア・ホールの演奏会ですか?」

藍羅先輩は頷いた。

「実は、どうしてもやりたい曲があるんだ」

「やりたい曲?」

どんな曲なんですか、と尋ねると、先輩はニッといたずらっぽく笑った。

「名前のない曲、だ」

「名前のない曲って…あ、もしかしてあの曲のことですか?」

私が言うと、先輩は笑顔で頷いた。

あの曲とは、先輩が何度か歌った、伴奏のない不思議なあの曲だ。

懐かしい、だけど斬新で。哀しくて、だけど楽しそうで。不思議なのに、とても心地よくて。

歌詞のない曲。

「すごく…すごくいいと思います! 寧ろ、歌うべきです、歌ってください!」

あのとても綺麗な曲が、先輩の歌声が、あのルナ・プリンシア・ホールという最高のコンサートホールで響き渡る…。

どれだけ最高だろう。どれだけ贅沢だろう。

考えただけで幸せだ。


あぁ、聞きたくて仕方がない。

先輩の歌声を、あの旋律を、近くで。
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