天使のアリア––翼の記憶––
「…乙葉」

「…どうして、言ってくれなかったの。約束、したのに」

語尾が伸びない、というのは、乙葉が怒っている証拠だ。


過去に一度だけ、乙葉が激怒したことがある。その時だけ、乙葉はいつもは伸ばしている語尾を伸ばさなかった。


それは私がまだ幼かったころ、自分の体よりも大きな犬に追いかけ回された時のこと。

犬に追いかけられて、走って走って、行き止まりにたどり着いてしまった私は、威嚇しながら自分を追い詰める犬が怖くて泣き出してしまった。

それでも何とか逃げようと後退りした時、あろうことか私は尻餅をついて、逃げられなくなってしまった。恐怖のあまり、立つことができなかったから。

そんな私に迫り来る犬を見て、あぁ、私は死ぬのかと思った。

その時だった。

『こら! つきこをいじめるな!』

乙葉はそう言って、犬の背後から後頭部に、幼いながらも鋭い一撃を加えたのだった。

両手で少し太い木の枝を持った乙葉は、今まで見たことがないくらい怒りを露わにしていた。助けられた私でさえ怖いと思うほどだった。

『にどとつきこにちかづくな! つきこをなかせたら、ただじゃおかないからね! わかったね!』

そのまま犬は乙葉の威厳に負けたのか、その場から走って逃げ出した。


それから後、一度も乙葉が怒っているのを見たことはなかった。

いつもふんわりとした天使の微笑みを浮かべて、私たちを包んでくれていたから。

私とウサギが喧嘩したときも、乙葉は怒ってはいなかった。

『2人ともー、いい加減にしなよー?』

プンプンと怒っているような素振りをみせても、ただ仲裁に入っているだけで怒ってはいないということは、私もウサギもよく分かっていた。

そんな乙葉が語尾を伸ばさないなんて、それほど本気で怒っているということ。

そこまで私は乙葉を怒らせてしまったのだ。



その理由は、今、痛いほど分かっているのだけど。



「…乙葉…」

「どうして?」

乙葉は私の言葉をかき消すように言った。


「どうして、言ってくれなかったの? なんで、相談してくれなかったの?」

どうして、と尋ねる乙葉に私は理由を言えず、ただごめんと謝ることしかできなかった。

「ごめん、乙葉…」

決して約束を忘れたわけじゃない。

けれど、どうしても言えなかった。

言ってしまったら、この優しい関係が崩れると思ったの。

この暖かい居場所を失いたくないという思いが、私の口を閉ざしたの。

なんて理由を並べ立てても、本当は違う。

ただ私が弱いだけ。

それだけなの。


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