天使のアリア––翼の記憶––


「月子」


不意に名前を呼ばれてはっと顔をあげると、キャラメルのくせ毛が見えた。


「…北斗先輩、何で…」


眼鏡で覆われていない、ワインレッドの瞳が心配そうに私を見ていた。

「め、眼鏡どうしたんですか? 忘れたんですか?」

「…眼鏡、いらない。球技大会、出ないから。人と会わないと思った」

眼鏡なしの北斗先輩と生徒たちが遭遇した場合、騒ぎになることは免れないだろう。

「じゃ、じゃあ、なんでこんなところにいるんですか? 今日は一日球技大会ですよ? 他に授業なんてないのに」

すると北斗先輩は溜息を吐きながら言った。

「…なんとなく」

力が抜けるような回答をされた。

ほんと、自由すぎる、この先輩は。


先輩は私の隣にしゃがんで私を同じ高さの視線で尋ねた。


「…どうして、こんなところにいるの」


確かに不自然だったかもしれない。

今は球技大会で生徒も職員もほとんど体育館に集まっているのに、人気のない廊下に座り込んで泣いているなんて、声をかけずにはいられなかっただろう。


「え? えっと…」


できる限りの自然な顔で理由を探してみるけれど、駄目だ、思考回路は機能しない。


「…もう、試合終わった?」


次の質問が来たので、取り敢えず返答する。

「私はもう終わりました。でも、決勝にはいけないんですけどね。けど、楽しかったですよ!」


いつも通り、元気よく、笑顔で。

そう心掛けて返事したというのに、先輩は厳しい表情を変えないまま言った。


「…ねぇ、なんで、泣いてるの」


先輩の言葉に一瞬驚いたけれど、私はできる限りの笑顔で言った。


「…どうして、分かったんですか。

バレないように頑張ったんですよ、私」


そう言っておどけて笑って見せるけれど、先輩はその無表情に限りなく近い厳しい表情を崩すことはなかった。


「…月子は、分かりやすいから」

「何ですか、それ」

笑って言ったはずだったのに、涙が一つ頬を伝った。

それを見た先輩は、困ったような、悲しい顔をした。

今まで、先輩の顔を見ても無表情だなとしか思わなかったけれど、大分表情を感じ取ることができるようになった。

これも成長の一つなのかもしれない、なんて考え事をしていると、先輩は私の手を握った。


「先輩…?」


訳が分からなくて先輩の顔を見ると、やっぱり無表情のまま遠くを見ていた。

そして私の方を見ると、言った。


「…行こう」


手を繋いだまま立ち上がるものだから、私も立ち上がってしまった。百パーセント先輩のせいだ。


「い、行こうって…どこに?」


先輩はその問いには答えなかった。



先輩に手を引かれたままたどり着いたのは、自販機前の広場だった。

球技大会のせいか、人が全くいない。

自販機の近くにある食堂で働いているオバちゃん達も今日は球技大会のためにお休みで、物音一つ一つ聞こえない。


静か、だった。


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