天使のアリア––翼の記憶––


「えー、ここでこの式を代入する」

黒板では先生による数学の授業が行われているのだが、私は窓の外に広がる夏の青をぼうっと見つめていた。

雲一つない快晴だ。

球技大会のころにはもうすっかり梅雨は去って、夏が到来していた。

日に日に暑さは増していく。

教室にはクーラーがあるので、意外にも快適に過ごせている。ありがたい。


ぼうっと外を眺めながら、夢での母とのやり取りを思い出していた。

 『後悔してない?』

慈愛に満ちた、そんな声。

お母さんが伝えたかったことは、このことだったんだね。


『してないよ、後悔なんて』

『それにもう、遅いんだよ。気づいたところで、もう遅いの』


夢の中で私はそんなことを言っていた。

目覚めたあの時は分からなかったけれど、今なら分かる。

泣きそうになる感情も、身に染みて分かるよ。

私が諦めたのは、このことだったんだね。

あぁ、本当に。

夢で見たあの時だったら、本当に間に合ったかもしれなかっただろうに。


それでも、やっぱり、

『みんなが幸せだから、それでいいの』

こう思ってしまう感情も残っているから。


きっと間に合うと分かっていたとしても、行動できなかったかもしれない。


頭の中で母の言葉が反芻する。


『みんなの幸せ。それが月子の願いなの?』

『本当は違うことを望んでいるんじゃないの?』


私が本当に望むことって、何だろう。

みんなが幸せならそれでいい。

それ以外に、あるのかな?

私に望みなんて、あるのかな?


考えてみて、はたと思い立った。


…あれだ。

あれを望んでいたんだ、私は。

心の中に、あったんだ、本当の願いが。


だけど私は臆病者で、


『本当は怖いだけでしょう?』


怖くて、願いから逃げていた。


『それを言って自分が、相手が、傷つくことが怖いんでしょう?』


私の発言で、みんなを苦しめてしまうかもしれないことが、怖くて。


『今あるこの居場所を失うのが怖いんでしょう?』


私の大切な居場所を、友達を、失ってしまうことが、怖くて。



『やめて』


夢の中ではそう叫んだ。

きっと逃げたかったんだ、願いに気づくことから。

怖かったんだ、こんなことを願っていると自覚することが。
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