天使のアリア––翼の記憶––
「こんなに大きな舞台で演奏するなんて、月子だって緊張するだろ?」

私は首を大きく縦に振った。

「だってあのルナ・プリンシアホールですよ?」

緊張しないわけがないじゃないですか、と私が真顔で言うと、先輩はそれもそうだなと薄く笑った。

「今からここで練習ってできるものか?」

藍羅先輩がスタッフに問いかける。スタッフの方は人の良い微笑みをしてもちろんと言った。

「帰るときや何かあったときにはスタッフに声をかけてくださいね」

そう言い残して彼は会場を去った。

広い、広い会場に、私と先輩が残された。

「こ、これからどうしましょう?」

うーんと背伸びをする藍羅先輩に問いかけた。

背伸びが終わると私を見てニッと笑った。


「歌うしかないだろ」


緊張していると言っていたのに、この余裕たっぷりな笑顔。

きっと私と同じだと思った。

私も藍羅先輩も、緊張はあるけれど、それ以上に、この最高のステージで奏でられる喜びを感じているのだろう。

「ほら、早く」

藍羅先輩は駆け足でステージへと向かった。

私もそれに続いてステージへと向かった。

手には演奏会で使う楽譜の束を持って。


私と藍羅先輩は同時にステージに登った。

その瞬間、それまで暗いオレンジ色だったステージのライトが急に眩く輝きだした。

「きっとスタッフの方が明かりをつけてくれたんですね」

「お礼を後で言わなきゃな」

熱いと感じるほどの明るいライトの下、私達は笑い合った。


私は早速ピアノの楽譜立てに楽譜を起き、ピアノ椅子に座ると、眼下に広がる白と黒の鍵盤をじっと見つめた。

それは私の家のものや学校のものと同じ並び順で並ぶけれど、やっぱり少し緊張した。

「弾かないのか?」

藍羅先輩が不思議そうな顔をした。

私はハッと顔をあげて、首を横に振った。

「ちょっと緊張してるだけです」

私が笑ってみせると、藍羅先輩も呆れたように笑った。

「まだ客も入ってないのに」

本当ですね、と私も苦笑いをした。

先輩が、取り敢えず弾いてみたら?と言うので、私は緊張しながらも弾くことにした。

鍵盤に指を乗せる。

白鍵から伝わる温度は、どこか温かいような気もした。

よろしくお願いしますと心で問いかけながら、右手の人差し指を下ろした。

ポロン、と音が空間に広がるように響く。

それは確かにピアノの音だったけど、今まで私が弾いてきたピアノの音とは違った。

180度全く違うというわけではないけれど、全ての面において違っていたのだ。

私はその違いを噛み締めるように、焼き付けるように、微かに残る残響に耳を澄ませた。

あぁ、このピアノは、こんな温度で、こんな音色で、こんな響きで奏でてくれるのか。

あぁ、演奏者の側からはこんな風に音が聞こえるのか。

微かに残っていた響きも空間に消えると、次は両手でピアノを弾いた。

次々に生まれていく音は、連なって、重なって、絡みあって、混ざりあって、互いに響かせあいながら輝きを増して、やがて一つの旋律へと、音楽へと変化していく。

音を奏でる。

たったそれだけのことが、こんなにも楽しい。

楽しくて、嬉しくて、時間も自分も忘れて、ただひたすらにピアノを弾き続けた。
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