小咄
「課長。明日の夕ご飯は何が食べたい?」

 帰る前に寝室に寄り、深成は真砂に希望を聞いた。

「何でもいいよ。お前が作りやすいものでいい」

「う~ん……。まぁわらわもお仕事終わってからだから、そんなに時間ないしなぁ」

 すとん、とベッドの端に座って、深成が考える。
 真砂はベッドに入っているが、枕の上にクッションを置いて、上体を起こしている。
 文庫本を持っているので、本でも読む気なのだろう。

「うもぅ。いつまでも起きてちゃ駄目だって。今日はわらわが来たときから、全然寝てないじゃん。その前から、ずっと起きてたんじゃないの?」

「う、まぁな」

 珍しく、真砂が言葉に詰まった。
 途端に深成が手を伸ばして、真砂の手から文庫本を取り上げる。

「やっぱり! じゃあ今から、もう寝なさい!」

 勢いよく真砂のほうを向いたので、深成は叱りつけながらも、バランスを崩して真砂に倒れ込む。

「もう大丈夫だっつーの。お前こそ、後先考えずに突っ込んでくるんだからなぁ」

 軽く深成を抱き留めつつ、真砂が言う。
 深成はそのまま、真砂のうなじに手を当てた。

「ん~……。そんなに熱くはないけど。熱は下がってるみたいね?」

「とっくの昔に下がったよ」

 真砂に抱き留められた状態のまま、うなじに手を回したので、今や深成は真砂に抱き付いている状態だ。

「そういやお前のおでんは美味かったな」

「えへ、そう? でも明日はお仕事帰りだから、煮込む時間がないな~。じゃ、週末に作ってあげるね」

 真砂の腕の中で、深成がにこりと笑う。
 何故ずっと抱き付いたままなのか、というと、深成の身体は斜めになっているので、真砂に抱き付いておかないと、真砂の上に倒れてしまうからなのだ。
 真砂が離してくれないから、身体を戻せない、ともいうが。

「じゃ、わらわ帰るね。……て、課長、離してくれないと……」

 ようやく深成は、ずっと真砂が自分を抱き締めていることに気付いた。
 少し暴れてみるが、真砂は力を緩めない。

「……課長?」

 おずおずと、深成が真砂を見上げる。
 すると、真砂が少し顔を近づけた。
 鼻先が触れそうなほどぎりぎり至近距離で、時が止まる。

「……キスしたいけど……駄目だな」

 しばらくしてから、ぼそ、と真砂が呟いた。
 そして、ぱ、と顔を離す。
 深成は真砂に引っ付いたまま、固まっていた。

「さ、そろそろ帰らないと、遅くなるぞ」

 そう言って、真砂はぐい、と深成の身体を戻すように引き離した。

「……あ、う、うん。じゃ、じゃあね。また明日ね」

 ぎくしゃくと立ち上がり、ロボットのようにぎこちない動きで、深成はドアに向かった。
 そこで振り返る。

「あ、そうだ。鍵、また借りて帰っていい?」

「ああ。ていうか、もうそれ、やるから」

 さらっと言う。
 え、と深成が驚いているうちに、真砂は先程深成が取り上げた文庫本を手に取り、身体を倒した。

「え、えっと。じゃ、じゃあ鍵は貰っちゃうけど……。えっと、いつでも来ちゃうよ」

「いいよ」

 寝転んだまま、真砂が答える。
 束の間深成は、じ、とベッドを見ていたが、やがてそろそろとドアを閉めた。

「じゃあ明日ね」

 それだけ言って、深成は真砂のマンションを後にした。

 夜道をてくてく歩きながら、深成は手の中の鍵を見た。
 同時に真砂の行動を思い出す。

---キスしたいって言ってた。やめたのは、キスしたら風邪が伝染るから、だよね---

 うむむ、と頭を悩ます。
 真砂は一体どういうつもりなのだろう。

---ていうか! どういうつもりも何も、課長、わらわのこと好きだって、年末に言ったじゃん! 鍵くれたのだって、わらわが特別だからだよね! そうだよ、ちゃんと課長、告白してくれてるじゃん!---

 だったら今のこの状態は、一体何なのだろうか、とも思うが。

---彼女……じゃないよね。付き合おうとかは言われてないし。んでも……言われてないけど、もうそうなってるのかな。う~ん、ちゃんと言ってくれないとわかんない---

 そこがちょっと不満だ。
 きちんと己の立場を確立して欲しい。

---あ、でも。仕事に支障があるかもだから、あえて言わないのかな---

 職場ですぐ近くにいるのだ。
 立場をはっきりさせて、変になったらややこしい。

 それは深成も同じだ。
 ちゃんと告白されてしまうと、変に意識してしまうかもしれない。

---うん、だから今のままでいいんだ。だって課長が好いてくれてるのは確かだし。それに……---

 再び手の中の鍵に視線を落とす。

---わらわも、課長のことは好きだもん---

 きゅ、と鍵を大切に握りしめ、深成は家路を急いだ。
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