小咄
 一旦自席に戻った真砂は、PCを置くなり問診票を引っ掴んで大会議室へと急いだ。
 部屋に入るなり、まず採血のほうに目をやる。

 採血のブースは会議室の最も奥だ。
 手前のほうには人がいるのに、奥に行くほど何故か静まり返っている。
 何となく嫌な予感がし、真砂は足早にそちらに歩いて行った。

「あっ課長」

 見ると採血のブースの前に、あきがいる。
 何か戸惑った様子でうろうろしているわりに、真砂を呼ぶ声はやけに小声だ。

「どうしたんだ」

 真砂が駆け寄ると、あきはちらりとブースを見た。

「さっき深成ちゃんが入ったんですけどね」

「……にしちゃ、やけに静かだな」

「ええ……。いえ、さっきまでは物凄い泣き声がしてたんですよ。ここに入るのだって、先生に担がれてましたし」

 真砂の眉間に皺が寄る。
 反対に、あきの目尻はぐぐっと下がった。

「気絶してるんじゃないだろうか」

「あり得ますけど。でも先生から特に何もないから、どうしたもんかと」

 嘘ではないが、それよりも真砂を待っていたのだが。
 ここに深成がいる、ということを知らせないといけない。
 もうちょっと言うなら、イケメン医師と二人で、ということも。

「あいつが中に入って、どれぐらいだ?」

「えっと……。十分は経ってます」

 あきが言った瞬間、真砂の身体が動いた。
 大股で、中に入る。

 おっと、と、あきも慌てて後を追った。
 が、パーテーションをくぐったところで、いきなり真砂の背にぶつかる。

「きゃっ! か、課長、どうし……」

 鼻を押さえながら、ひょい、と中を覗き込んだあきの言葉が宙に浮いた。
 目の前には、イケメン医師に抱きすくめられた深成がいる。

 しかも、イケメン医師の膝の上だ。
 意識なく、人形のようにくたりとしている深成を膝に乗せて、医師は深成の首筋を覗き込んでいた。

「あれぇ、まだ次の人は呼んでないんだけど」

 のほほんと顔を上げた医師だったが、その顔が一瞬で凍り付いた。
 あきも動きをなくしている。

 あきは真砂の背後にいるので、真砂の表情はわからないが、纏う空気が一瞬にして変わったのだ。
 あまりの恐ろしさに、腰が砕けそうになる。

「……貴様っ……」

 真砂が手をかけていたパーテーションが、みし、と軋んだ。

「あああああっ!! ご、誤解だよっ! いやね、こ、この子があまりに泣き叫ぶもんだからさっ。僕も動転してね。ほ、ほら、あんまり泣かれたら、僕の立場ってものもあるしっ。何とか宥めようとしてたんだけど、とうとう気絶しちゃってね」

 ぶんぶんと手を振って釈明する。

「思いっきり倒れそうになったから、慌てて抱き上げただけなんだって」

「だったらさっさと離すべきだろう」

 いつも低い声が、一段と低い。
 今にも医師を殺しそうな雰囲気に、あきまで泣き叫びそうになった。

「い、いや。そりゃそうなんだけど。こんなチャンスないし……」

 ちょっとへら、と言った医師に、また場の空気が凍る。
 あわわ、と医師はまた手を振った。

「いやっ! 僕だってあけびちゃんを悲しませたくないからね! ぐっと我慢したんだ。さ、さっきのは、そう、この子の場合は寝てる間に採血してしまったほうがいいかな、と考えてたんだよ!」

 前半部分は何のこっちゃだが、医師は早口でそう言うと、机の上の採血セットに手を伸ばす。
 真砂が、つかつかと医師に近付いた。
 そして、明らかにビビった医師から、深成を奪う。

「その判断は正しいがな。こいつを膝に乗せていいのは俺だけだ」

 そう言って、医師の前の椅子に座ると、膝に乗せた深成の腕を、採血用の小さいクッションの上に伸ばした。
 後ろではあきが、またふおおぉぉっ! と鼻息を荒くしていた。
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