小咄
「三か月、よく頑張ってくれたな。助かったよ」

 週末の定時過ぎ、二課では清五郎が惟道に声をかけていた。
 今日で惟道のバイト期間は終了だ。

「お世話になりました」

 ぺこんと頭を下げる惟道の横で、ゆいはやはり、名残惜しそうにその様子を見つめている。

「仲直りできたのは良かったけど……」

 そんな二課の様子を一課から眺めながら、あきはぼそ、と呟いた。
 あきとゆいは、あの夜のうちに仲直りしていた。
 というか、別に惟道の態度がまずかっただけで、あきには何の罪もないので、さしてこじれることもなかったのだが。

 ただゆいにしてみれば、捨吉に続き惟道まであきを選んだことに対するわだかまりがあったかもしれないが。

「微妙よねぇ。結局惟道くんは、誰とも付き合わなかったわけだし。だったらゆいちゃんも諦めつかないんじゃないかしら」

「はっきり誰かのものになってないから?」

 深成が聞くと、あきは頷いた。

「そのほうが諦めもつくでしょ。しかも惟道くんは、言ってしまえば誰でもいいって感じだったから、余計可能性があるようにも思えるし」

「何でゆいさんでは駄目なんだろう?」

「駄目なわけではないと思う。実際やることやったんだし」

「そ、そっか……」

「ていうかさ、あの子って駄目な人もいない代わりに、好きな人もいないと思う。皆一定レベルにどうでもいい人間なのよ。あたしとゆいちゃんにしたって、大した差はないと思う」

 ため息と共に言うあきに、深成も惟道を見た。
 結局初めて会ったときと、何ら変わらなかったな、と思う。
 あの惟道が、楽しそうに笑うぐらいになれば、と思ったものだが。

「……ていうか、想像できない……」

 自分で思って、深成は額を押さえた。
 あの惟道が、声を上げて笑うなんてことがあるのだろうか。

「あ、でも一回だけ、家族の電話の後ちょっとだけ笑ってたよね」

 ぽん、と手を打って言うと、あきも、ああ、と大きく頷いた。

「あれはなかなか衝撃だったわ。笑った、てほどでもないのに、凄いインパクトよねぇ」

「てことは、お家の人の前では明るいのかも」

「いや~、それはどうかしらぁ~?」

「うん、わらわも自分で言っといて想像できない」

「けどそういうところも課長に似てるわよ」

「へ?」

 いきなり話が真砂に飛び、深成はきょとんとする。
 あきは目尻を若干下げ、少し意味ありげに言った。

「課長の笑ったところも見たことないわ」

「えっそう?」

 反射的に言ってしまってから、はた、と我に返る。

「ああ……そ、そう言われてみれば、そうかなぁ~?」

「あらら? 深成ちゃんでもそうなの? そんなわけないでしょ~?」

「い、いやっその……」

 わたわたと焦りながら、深成は、そういえば真砂の笑顔を初めて見たのはいつだっけ、と考えた。

「あ、あの凄い雨のときだ。車の中で……」

「車?」

「あ、いやそのっ。大分昔だよっ」

「へえぇ~? そんな昔から、深成ちゃん付き合ってるんだ」

「いやいやいやっ! まだ付き合ってないっ」

「付き合ってないときから、課長の車に乗るぐらい親密だったの?」

「うう……。い、いやその」

「しかも笑顔を見せるぐらい、課長の態度も特別だったのねぇ」

 ぱくぱくと、深成は魚のように口を動かした。
 最早言葉も出てこない。
 むしろ喋れば喋るほど、ぼろが出てしまう。

 ひとしきり深成をからかってから、あきはようやくPCに目を戻した。

「惟道くんも大概だけど、課長の笑顔も相当な破壊力でしょうね」

 言いつつ、PCを落とす。

「さて、帰ろうか。深成ちゃんも上がれるでしょ?」

「あ、うん」

 荷物をまとめていると、二課のほうから惟道が歩いてきた。

「惟道くん、今日までだね。お疲れ様」

 あきが言うと、惟道は顔を上げ、小さく会釈した。
 不気味で全く空気を読まない不思議ちゃんだが、やはり見目はいい。
 この子に交際を申し込まれたんだよなぁ、と思うと、あきまで名残惜しくなってくる。
 ちろ、と二課のほうを見ると、ゆいも今日はもう上がるようだ。

「最後だし、皆で駅まで帰ろうか」

 あきがゆいを手招きすると、ゆいはちょっと躊躇った後で歩いてきた。
 そのまま四人で駅に向かう。

「すまなかったな」

 歩きながら、惟道が口を開いた。
 もっとも顔は前を向いているので、誰に対して言ったのかわからない。
 あきとゆいが顔を見合わせた。

「ん?」

「そなたら皆、不快にさせるようなことをしてしまった」

 どうやら全員に対しての謝罪だったようだ。

「そんなことないよ。気にしないで」

「うん、不快ってほどのことでもないしね」

 深成とあきが軽く流す。
 むしろあきは、少しいい気分にさせて貰ったといってもいい。

「あの」

 珍しく少し後ろを歩いていたゆいが、小さく口を開いた。

「どうしても、あたしじゃ駄目かな」

 真剣な声に、惟道が足を止めて振り向いた。
 漆黒の瞳がゆいを捕らえる。

「そなたが駄目なわけではない。俺などに構っていると、そなたのためにならぬ」

「え、どういうこと? そんなことないよ」

「俺はそなたらのように、相手に何かを与えることができぬ。そなたはいろいろなものを与えてくれるだろうが、それらは俺に何の影響も及ぼさぬのだ。そのような時間、無駄ではないか」

 ぽかん、とゆいはもちろん、深成もあきも口を開けて惟道を見た。
 普通の人が言うと「そんなわけはない」とか言えるのだろうが、惟道が言うと妙に納得する。

 他人が惟道に影響を与えることなどないのだろう。
 他人が、というよりは、外部が、と言ったほうがいいかもしれない。
 何が起こっても、惟道の心が動くことはない。

「すまぬな」

 最後に一言言って、惟道は歩き出す。
 傍にいるとあんなにインパクトがあるのに、離れると途端に存在が薄れる。
 惟道は、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。
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