とにかく毎日呟くという二月の挑戦。〜言ってみよう!やってみよう!〜
18日。男のための映画。
【2月18日火曜日】
右の口元に真っ赤な吹き出物が出現。じんじんする。うう、痛い。週末の不摂生が祟った。バレンタインに作ったガトーショコラ、フィギュア観戦の寝不足、伴奏のストレス。以上3つが主な要因でホルモンバランスが乱れた模様。女ってほんとに不便な生き物だ。
昨日、映画『RUSH』を観てきた。
以下、ネタバレになるので観に行こうと思っている方はご注意を。(詳しく書くので、飛ばしてください。)
◆
映画『RUSH』。
ニキ・ラウダとジェームス・ハント。モータースポーツファンの間では伝説となっている2人のF1ドライバーが繰り広げる、男同士のプライドを賭けた闘い(文字通りのデッドヒート)、その後に生まれる友情の物語。
実力の拮抗するこの2人、つまりライバル関係にあるのだがタイプが真逆で面白い。
ニキ・ラウダは冷静沈着。ネズミ、と呼ばれる通り容姿には恵まれない。
コンピューターマシンに例えられるほど、緻密に計算しコースを走る。1mm単位でマシンをチューニングし、天候や路面状況も注意深く読む。名誉に頓着がなく、速く走るためならスポンサーもメカニックも一刀両断に切り捨てる。ゆえに周囲に嫌われ、友人もいない。が、実力だけでのし上がっていく。
一方のジェームス・ハントは直情型。ハンサムでプレイボーイ。女と酒(薬も?そのような台詞があった)に溺れる私生活。レース前後も常に感情的。だが、仲間には愛される。
1970年代後半、F1の黄金期。
このまったくタイプの違う2人の男がそれぞれに手段は違えどF3からF1の世界にかけ上がり、激しい首位争いを展開する。
運命の1976年、ドイツGP。
それまでのシリーズ戦で首位に立っていたニキ・ラウダがまさかのクラッシュ。
全身を火に包まれ大やけどを負うが奇跡的に生還。わずか46日後にレースに復帰する。皮膚がケロイド状のままの直視に耐えない顔で。彼をレースに戻したのは他でもない、ジェームス・ハントだった。自分が欠場するレースでジェームスハントが連勝するのを、ニキラウダは病室のテレビで観ていた。そうやって自分のポイントが奪われていくのを黙って見るしかなかったニキは、悔しさをバネに辛い治療に耐えた。
カムバック会見をしたニキ・ラウダに対し、その気味悪い容貌を揶揄するような質問をした記者がいた。このあとの、ジェームスハントの対応がひとつの見せ場。ジェームズはその記者を捕まえてボコボコに殴り倒す。ニキが復帰しなければその年のチャンピオンは間違いなく自分が獲るであろう状況で。邪魔な存在であるはずのニキの名誉の為に、記者を殴る。男の友情ってのは、実力を認め合えれば嫌いな奴でも成立するのが素晴らしいと思う。
このふたり、お互いがお互いをどう思っているかと聞かれれば、多分ふたりとも口を揃えてこう言うだろう。
心底気に食わない奴。
でも、こうも言うと思う。
あいつがいたから、俺は強くなれた。
事実、ニキは言う。ジェームスがいたから、ジェームスを倒す為に、生きて戻って来たんだと。
ラスト、迎える76年の最終戦、富士スピードウェイ。復帰したニキラウダ、3ポイント差で追うジェームスハント。
豪雨で最悪のコンディションのなか、果たして、チャンピオンの座を獲得したのは、、、?
◆
個人的にF1に思い入れがあるわけではなく、昨日も書いたが夫の趣味に乗っかって観た映画だ。だけど、十分に心を揺さぶられた。もっと正直に書くと、すんごい疲れた。これは観るのに相当なエネルギーが要った。
だって70年代のF1って、今と違ってドライバーの安全を確保するための配慮なんてされてない。レーシングスーツの性能だって違う。燃える燃える。1つのレースで彼らが死ぬ確率は、20パーセントだそうだ。クラッシュしたら、大体死ぬ。
そんな状況で、時速300キロ弱でコーナーに入って行くって、もう理解の範疇を軽く超えている。どうして、その極限でアクセルが踏めるのか。
映画の中で、ニキ・ラウダが全身を炎に包まれるシーンがあった。おびただしい流血と、焼けただれる皮膚。観ていたら、心臓がどくどくして、痛くて痛くて、冷や汗が出た。
ニキに限らず、男たちはみな死を隣り合わせにして限界ギリギリのスピードで突っ込んで行く。私は生きた心地がしなかった。
致死率2割の戦場で、それでもなお走るのは、何故だろう。何がそうまで男という生き物を駆り立てるのだろう。そこでアドレナリンが放出されるってことは、これはもう男の本能みたいなものなんだろうな。
命だけじゃない。彼らは莫大なお金をじゃんじゃん燃やしながら走る。
思ったこと。
ドライバーだけじゃなく、スポンサーもみんな、、、バカなんだな。うん、悪意はない。でも馬鹿。
バカでバカでしょうがないけど、こいつらカッコイイな。そんで、ちょっとうらやましいな。
こーゆーのだよね。
男ってこーゆー生き物だよね。
で、こーゆーのに、心底共感して感動して興奮できる生き物なんだよね、って。
そこに立って、同じ興奮を味わってみたいと思った。叶わぬ願いなんだけど。
まさに、オトコの、オトコによる、オトコのための映画。
何故、自分にはこの映画の興奮を心底理解することができないのか(面白いとは思うが共感はできない)を延々考えていたら、男女の違い、そもそも身体構造がちがうということにたどり着いた。
男性が男性の身体を、女性は女性の身体を持っているからだなって。
で、わたしは女だからだなって。
→明日に続く
この映画を構成する画面上の大きな要素は、流血、汗、スピード、ケンカ、セックス。男性だからこそおおいに力を放出でき、その結果として快楽を享受できるものたち。
つまり「放出する性」であって、初めてこの映画の最大の魅力を味わえるんだろうなーと。(あらやだ、身も蓋もない。失礼)
「受け入れる」側の性である女には、放出による快楽は、当たり前だけど味わうことができない、ん、だ、なーーと。
そんなことをつらつら考えております。
アクセル踏むのって、力の放出でしょ。
死を身近に感じると、放出したくなる(=アクセル踏みたくなる)のは、男性の性なんだなと。
しっかりまとめきれず
読みにくかったらごめんなさい。
やっぱり仕事の合間に書ける量って限られるわ。これが能力の限界なり。
ではまた明日♪
よろしければお付き合いください。